大分・別府温泉の旅②<祝・三浦梅園生誕300年>
こんにちは、ぱんだごろごろです。
大分・別府温泉の旅、二日目は、午前中が杵築市の城下町資料館見学と杵築市散策、午後が別府温泉の地獄巡りでした。
杵築市のサンドイッチ型城下町については、5年前、湯布院温泉から家に帰る時に、大分空港でその存在を知って、
『もっと早く知っていれば、見学できたのに〜』
と残念に思ったものでした。
今回、三浦梅園生誕300年記念学会が国東市で開かれることになり、再び大分県へ行く絶好の機会が訪れたからには、何としてでも杵築市の城下町をこの目で見なければ!
そう思い、杵築市で見学したいものとして、
・藩主御成門(杵築藩の藩校、「学習館」の門。この藩校は、三浦梅園の藩主への進言によって、作られたと言う)
・佐野家住宅(三浦梅園が「達亭」と名付けた)
・城下町資料館(三浦梅園関係の資料もある)
・サンドイッチ型城下町(両側が高台で武士が住み、間の低地に商人が住む町があった)
を選び出していたところ、杵築市出身のS氏から、願ってもないご提案が。
『自分もその日の朝に大分空港に着く飛行機でそちらに行くので、よろしければ、午前中、杵築市をご案内しましょうか?』
『ぜひ!』
とお返事しました。
このS氏のことも、度々梅園関係の記事の中で書いていますが、
▼実家は代々、杵築藩で藩医を務めてきたお家柄。
▼始祖より400年以上続く旧家の、現当主。
▼ご本人も当然、医師。
▼お父上の代までは、地元の杵築市で有名な医院を営んでいた。
▼ご本人は東京で外科医になっていたため、父上のご逝去に伴い、実家の医院は、杵築市に寄贈。
今は、杵築市の観光名所になっている。
▼そのご実家こそ、三浦梅園が「達亭」と名付け、『達亭記』という撰文を書いて贈った、佐野家の屋敷である。
▼当時、佐野家の次男、佐野玄遷は、梅園の門人であった。
まさしく、三浦梅園の関係者なのです!
前日訪れた先哲史料館にあった、梅園関係の資料は、このS氏が代々佐野家に伝わる書画、古文書類を、史料館に寄託されたもの。
S氏のご好意により、私と夫は、佐野家所蔵の梅園資料を見せてもらうことができたのでした。
当日朝、大露天風呂につかり、モーニングビュッフェを心ゆくまで食べ尽くした私は、8時半過ぎ、夫の運転するレンタカーの助手席に座っていました。
別府温泉を出て、杵築市に向かいます。
途中で、S氏から、彼の乗る飛行機が、時刻通りに無事出発したとのメールが届きました。
待ち合わせ場所は杵築市の城下町資料館です。
途中、杵築インターで、降り損なうというハプニングがあり、S氏を待たせてしまうかも、というドキドキの展開になりましたが、私たちの車が資料館の駐車場に入ったところで、もう一台白い車が入ってきて、それが大分空港からS氏が運転してきたレンタカーでした。
私たちはほぼ同時に、城下町資料館に着いたのです。
車から降り立って、まずは挨拶をと思っていたのですが、夫がS氏に、ナビが無言でいるせいで、インターチェンジで下りることができなかったという説明を始めてしまったので、ほぼ初対面の間柄だったのですが、私たちはそのまま資料館に入ることになりました。
建物の入り口には、二人の方が待っていてくださいました。
年かさの方はS氏とは旧知の間柄のようで、二人で親しそうに話していました。
もうお一人は、新進気鋭の学芸員といった、まだお若い方でした。
先哲史料館だけでなく、城下町資料館にも、佐野家が寄託している資料がいくつかあるそうで、佐野玄遷が作った地球儀のように、劣化の危険性があるものは現在公開していないため、見られませんでしたが、三浦梅園とその時代に関わりのある資料を、その方は、次々に見せ、説明してくださいました。
私の質問にも、その方は丁寧に答えて下さって、疑問が解けたところや、ますます興味の湧いたところもありました。
館内の展示物をすべて見せて頂き、最後に案内された、取り分け見晴らしが良いという窓からは、遠く四国の一部も見えるのでした。
3人で外に出て、暑い日でしたが、坂道を登って行くと、展望台のような場所に出ました。
背景に杵築城が入るようにして、記念写真を撮りました。
さて、城下町資料館のお二人にお礼を言って、いよいよ杵築市散策です。
ところが…、
この日は恐ろしく暑い日でした。
9月下旬とはとても思えない暑さで、60代の男女3人が、この階段でできた坂の町を歩き回れば、おそらく体調を悪くする危険があったでしょう。
S氏は、私たちが乗ってきたレンタカーは、資料館の駐車場に停めておき、自分のレンタカーに3人で乗って、車で城下町を回ろうと提案してくれました。
私と夫はもちろん大賛成しました。
少し、ほんの少しだけ、あの坂道に立って、谷底の町並みと、向かい側の階段坂を見てみたい、歩いてみたい、という気持ちもありましたが、暑さにはやはり勝てないのでした。
私と夫は、S氏のレンタカーに乗り込み、快適な杵築市見学に出掛けました。
特筆すべきなのは、S氏の運転の上手さ。
なめらかに、すべるように車を走らせるのです。
とても信号のない町で育った人とは思えません。
いや、信号がなかったからこその、この走りなのか。
ともあれ、現在も、杵築市には信号があまりありません。
藩校「学習館」跡の藩主御成門も見に行きました。
七代藩主、松平親賢公が、この門を通ったのかもしれません。
坂の上では、車を停めて、向かい側に見える坂道を眺め、今も商店が並ぶ、谷あいの町並みを眺めました。
そしていよいよ、「達亭」へ。
三浦梅園も訪れた、藩医のお屋敷です。
S氏にとっては、かつての実家ですから、顔パスです。
管理者の方とも親しく言葉を交わしています。
玄関を入ったところには、かつて当主が登城する際に使ったという、駕籠がぶら下がっています。
S氏が子供時代に、飛びかかって穴を開けてしまったという、帆足万里からの書簡も飾ってありました。
絵も書も、片端から写真に撮りました。
屋内から庭に出て、S氏は、かつてそこにあった、祖母の茶室を語るのでした(あまりに古く危険になったので、取り壊したそうです)。
ここでこっそり思ったことですが、城下町資料館からこちら、S氏と、彼が旧交を暖めている人々とのやり取りを見ていると、ただ久し振りに会った、地元の有名な医院の跡取り息子に対する態度とは、ちょっと違うようなのです。
ある婦人などは、S氏の姿を認めた途端、転がるように走って来ました。
まるでS氏をお待たせするようなことがあってはならないとでも思っているかのように。
『何だかお殿様みたいね』
私が言うと、夫は深く頷いたのでした。
▼長くなりましたので、続きはまた次回に致します。
今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。