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【き・ごと・はな・ごと(第2回)】北の城下町に伝わる椿餅

椿餅といえば、椿の葉二枚で餅をサンドイッチ状に挟んだ某老舗の茶菓子を思いつく人もいるのでは?春の息吹を感じさせてくれる味わい深い餅菓子だが、その歴史はかなり古いものらしい。源氏物語の若菜の章にも「−椿餅(ツバイモチ)梨、柑子やうのものども、さまざまに・・・・・若き人々そぼれとり食ふ−」と、桜の下での蹴鞠の宴の食べ物として登場している。

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JR秋田市内から、日本海沿いに南に下る羽後本線に乗り換えて五駅目。2万石の城下町としての佇まいを今に残す亀田の町に伝わる椿餅はちょっと独特である。和菓子屋の店先に並ぶ季節菓子ではなく、雛祭り(旧暦4月3日)のために特別に用意するもの、つまりハレの行事を祝う餅なのだ。初節句の女の子がいる家では、餅を詰めた重箱を持って、名付け親とか仲人とか親戚に届けてまわる。ふきのとうが芽吹く春まだ浅い山に分け入って採ってきた薮椿の葉の上に、丸型の紅い印が押されたいかにも御目出度い紅白の餅が乗る。今はほとんどの家が餅屋さんに注文しているが、それでもまだまだ風習は根強い。

いつ頃から?また、椿の葉を使うのに由来でもあるのかと会う人ごとに聞いてみたが、ハッキリしたことはわからない。資料もないという。「椿の葉は肉厚だし、匂いもつかないし、なにしろ椿が多いから・・・」、それ以上の答えは聞けなかった。ちなみに、隣町でも寸分違わぬ餅を作るが、葉は笹である。

前を海、背中をぐるりと山で抱かれているこの町は、たしかに椿が多い。中でもとびきり椿だらけの山をさして椿山と呼んでいる。さらに興味が引かれたのはその隣にならぶ柏山の存在だ。やはりここも柏ばかりが群生しているのだ。女子の節句餅に使う椿の茂る山と、男子の節句の柏餅に使う柏の茂る山が並ぶ・・・なんて微笑ましい。これは、きっと何かワケがあって人の手が動いてのことだと思ってしまうのだが・・・。

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椿のことは古事記や日本書紀にも記されており、縄文時代の遺跡の出土品にも見られる。日本人の暮らしや文化にかかわりをもってきた歴史は5000年以上のものになるという。その美しさで人の心を捉えるだけでなく、枝は古くは武器、また櫛や杖などにも細工された。また実を絞れば椿油となり、さらに灰はムラサキ染めの媒染料として、陶器の釉薬としても有益だ。その貢献度からなのか、あるいはまた、常緑樹として一年中枯れることなく艶やかな葉を光らせているエネルギーに人が何かを感じ取ったのか、古代から椿は霊木との云われが強い。出雲の八重垣神社のご神木の夫婦椿、自生椿の北限地でもある夏泊の椿山などを始め、椿にまつわる謂われも各地に見られる。

その極め付けとも言えるのが、福井県小浜市に残る八百比丘尼の話だろう。昔、若狭国で不老不死の人魚の肉を食べてしまったがために、いつまでたっても歳をとらず、120歳になったときに尼僧となった。それから800歳になるまで椿の枝を携えて諸国を巡り、行く先々で椿を挿し歩いたという話である。

また、これは物語りではなくて、民族学的な説によるのだが、昔、実際に比丘尼と呼ばれる歩き巫女とでもいうべき女性たちがいたのだという。予言したりものを言い当てたりできる力をもっていたのだが、彼女たちも八百比丘尼と同様、トレードマークのようにいつも椿の枝を手にぶら下げていた。これは口寄せ、つまりご神託を降ろすための道具にしたのだとも言われている。また、その枝を土に挿して歩いていたとも。その枝が根付いて椿があちこちで群生しているのだという。

ちょっとオカルチックになってしまったが、神秘性を孕んだ椿のイメージは、そんな想像をさせるに充分だ。女性の呪力と椿との縁の深さは、民族的なテーマとして、あちこちで取り上げられている。

それだけの云われを含んだ花なのであるから、ここ亀田の雛祭りの節句に椿の葉を使ったのにも、そのパワーある息吹をいただいて、娘の無事な成長を助けてもらいたい。そんな祖先たちの密やかな祈りが込められてのことだと思う。また、子孫たちの幸せと繁栄を願って、椿の枝を挿したのかもしれない。亀田にも比丘尼がいたのかしら、など、あれこれと、かってな想像に思いをはせる遠来の客を、西日に光る椿山は黙って見つめるだけだ。

柄杓を持つ雛人形と供えの椿餅
紅が鮮やかな椿餅
紅が鮮やかな椿餅里に咲く藪椿
優美な雛人形達
みごとな雛道具が並ぶ

文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞―平成9年(1997年)5月15日(木曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

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