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自由の丘に駆け出していきたい

 あの時心が動いていたのだということに、いつも後になってから気づくのです。
 それはティレニア海から、トスカーナの糸杉のあいだを通り過ぎて、夕暮れのボローニャのそよ風にのせて運ばれてきたような小さな知らせのようで、ことばではうまく言い表せない胸の内に、まる、さんかく、しかくと徐々に輪郭を与えてゆき、そのうち確信めいた感情のかたちがそっと浮き出てくるような、極めて静かで内的な発見なのだと思います。

トスカーナの糸杉

 初めは見るもの全てが真新しく映ったイタリアは、だんだんと自分の暮らしの中に溶け込んでいって、留学を始めて6ヶ月経った今、ようやくこの街の人々に慣れ生活が落ち着いてきたころに、本当のこの国の美しさを知ったような気がいたします。それは地球の歩き方で見るイタリアとは比べ物にならないほどめくるめく日々で、語学力、文化への解像度が高まっていくにつれて、あるいは旅行と生活の垣根、日常と非日常の境界が曖昧になっていくにつれて、つい先日匍匐前進ができるようになった赤ちゃんのように、身の回りのすべてを吸収したいという気分になるのです。
 そうして1日が終わる頃に今度は大人の頭になってみて、──今はひとりで考える時間はたっぷりありますから──すっかり思考で飽和した1日の出来事をゆっくりと振り返ってみて、内面に浮き出てくる感情のかたちを素描してみる。心の描像を認識するときに、じわじわと、ああ、あの瞬間に心が歩き出していたのだと感ずるわけです。

ボローニャ、サント・ステファノ聖堂の中庭

 イタリアに初めてきた頃は、「なにであれ新しく体験したことすべてに感動しなくてはならない」というような、焦りのような気持が自分の中にあったような気がいたします。今ここの景色をとどめておきたい、瞬間の気持をとどめておきたいという思いから、非公開のInstagramやTwitterにその時々の写真や気持を投稿することは今でもよくします。その背景には、瞬間の小さな気づきというのはたちまち風に流されてしまうから、後からは正確に再現できやしないだろうという生きる焦りのような気持があるのですね。これは一つ感情の作用の事実であるように思われますが、たとえ言葉にできたとしても、理解の方が追いついていない鈍い感覚が頭の中に残っておりました。

 数ヶ月が経って、今の私が別の角度から思いますのは、真に心を揺るがす経験というものは、後になって頭の中が整理されてから、それぞれ思い出が有機的なつながりで編み込まれて結実するようだということです。この作用も先述のいまここの気づきと等しく重要のように思われます。ゆっくりと分解していって思い出となりつつある体験を、ひとつひとつ糸を紡ぐように思い起こすときに、その出来事の本来の普遍的性質と向き合っているかのような感覚を覚えます。しかしこれはカーソンのThe Sense of Wonderとも、西田哲学でいう純粋経験とも違う。一方に自然を感じていながら、他方で人間の存在というものに温かみを感じている。人間性は人々の繋がりの中で介在するのだけれど、極めて純化した世界との向き合いで、一旦思考からは離れたものが、どこか自分の手が及ばないところで洗練されてきて、ひとり落ち着いた気持になった時などにまた帰ってくる。それはまるでオーケストラを聴きに行った帰り道に気づく、耳にまだ残る反響のような時間差で感じる感動で、この響きをいつまでも心に抱えて生きていけたらどんなに素敵だろうと思います。

こころよ では いっておいで
しかし また もどっておいでね
やっぱり ここが いいのだに
こころよ では 行っておいで

八木重吉『秋の瞳』より

 たとえば夕食の美味しいパスタを食べ終えて、今日も満ち足りた気持でひとりナイフで桃を剥いている時、いまこの瞬間が小さなイタリアの食卓の一つとして小さな灯りを形作っていることにふと気づきます。イタリアの石造りの街並みにぽつりぽつりと灯る、あかりのひとつひとつを思い浮かべて、そのひとつを今の私が構成していることを自覚するとともに、思考はゆっくりと、イタリアの街それぞれの情景に移ろいます。ボローニャの石畳の街角や、チンクエ・テッレの海の見える小さな街々。ミラノの喧騒と忙しさと旅行客との会話。トスカーナの葡萄畑の中で聞こえる小鳥のさえずり。それぞれの街で暮らす人々とそれぞれの食卓。今になってわかる、会話のひとつひとつに隠されていた人々の生き方について。その時々に気づいていなかった思い出が、ゆっくりと心の中で結晶化していく時間を胸の中で感じるのです。

山から見たチンクエ・テッレとティレニア海

 そうした新たな発見を何か自分の手の及ばぬところから現れる時に、静かで穏やかなよろこびを感じるのです。時間的ゆとりのある生活がそうさせているというより、イタリアのとても人間らしい、あるいは自分らしい、自分のための時間が、心に今までなかった新たな作用をもたらしてくれているように思います。本来、私のこころの帰る場所は日本なはずなのに、昼の間はどこか行ってしまっていた思いのあれこれは、夕方になってイタリアの小さな食卓へともどってきている。この国での暮らしのそこにある日常一つ一つの美しさはこうしたかすかな瞬間に一層の輝きを放つのです。

 子どもの頃に憧れていた、絵本の中の世界で生きているような感覚をもたらしてくれているこの生活は、残りの半年でどのような景色を見せてくれるのでしょう。

ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ
ながれ ゆくものよ
さあ それならば ゆくがいい
「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく
まぼろしを 追ふて かぎりなく
こころときめいて かけりゆけよ

八木重吉『秋の瞳』より

 もちろん異国の生活で大変なこともあるけれど、日本語がない生活はそれはとても寂しいけれど、忙しかった日本で気づかなかったことはたくさんあるように思います。それに私にとって生きるということは、幸せなことと辛いことの内訳を考えた時に、ほんの少しだけ、幸せの量が多いようです。だからこそ、私はいまひとときの幸福の上にあぐらをかいて、後もう少しだけ風を感じていたい。引力に最大限に抗ってみたい。そして、西洋の詩を小鳥のさえずりに乗せた、心地よい秋の風が集まる自由の丘へ、裸足になって駆け出していきたいと思うのです。

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