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有田焼のマグカップから学んだこと


有田焼のマグカップから学んだこと。
有田焼のマグカップで、ドリップコーヒーとお茶を飲んでいる。
壊れにくいとか、保温だけ考えると、ステンレスでもいいように思うのだが、見た目を楽しみたいので、陶器のマグカップを買う。
毎日、手に持って使うものなら、持ちやすいのも、大事なポイントだ。

長く使っていると、汚れてくる。
洗っても、落ちない汚れが出てくる。
陶器は、吸収するというから、そういうものらしい。
白い物でなければ、自分では、それほど気にはならない。
それはそれで、味と、思っているのは、自分だけかもしれないが。

毎日、一緒にいるものになると、扱いが雑になる。
当たり前のような存在になると、ぞんざいに、扱ってしまうことがある。
この前、ちょっとした、不注意から落下させてしまった・・・
少し斜めな場所に、ひょい、と、置いた次の瞬間、床に落ちた。
「あーーーーー!」しまったぁぁぁ!!!」と思ったが、運が良く、割れて壊れることはなかった。
「あーーー良かった」と、胸を撫で下ろした。
何ともなかった。

その数日後に、異変に気が付いた。
ふと、カップを見ると、ひび割れが出来ていた。
毎日、コーヒーとお茶を楽しんでいて、なんともないわけではなかったことに、驚いた。
あの瞬間に、衝撃を受けていて、ひび割れが出来ていたのだ。
すぐには、目に見えなかったが、2か所にひびが入っている。

僕は、「あーーー痛かったろうに、 ごめんなさい」と、いう気持ちになった。
それでも、保温して使えている。
壊れずにいてくれてありがたい。
そう思った。

数日間 その、ひび割れカップを見ながらコーヒーを飲んでいる。
手に取ってひびを眺めながら、温かいコーヒーを楽しんでいると、
それはそれで味のあるデザインのように、思えてきた。
カップとしての形があるから、そう思えるのだ。

これが人間だったらな、と、考えてみた。
衝撃は暴力でも言葉でも何でもいいのだが、受けた人は肉体や心にひびや傷がつくのだ。
肉体的なアザなら見た目で分かるが、心についた傷やひびは見えないのだ。
身近な存在というのは、人はぞんざいに扱ってしまうことがある。
例えば家族だったり恋人だったりするのだけれど、普段、何気ない自分の行動や言動が、
誰かの、心を傷つけたりしているのではないか、と思う。
もちろん、知らず知らずのことなので悪気などはないのだが、
ちょっとした、不注意とか気遣いをしなかった、とかだったりする。
そんな傷が、人の心の表面にあったとしても、落下したカップのように
形が保たれているなら、まだ、その関係は、壊れていないように思う。

陶器のマグカップのひび割れから、 
そんなことを学んだような気がする。
それは、人が生きる上でも、大事なことのように思うのです。


エッセイ:かっつぇ・imaging factory

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