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おじいちゃんのジャージを着て海を渡ったら、新世界の扉が開いた

「そんなとこ行ったら、首吊らなあかんわ」

洗い物をしながら、面倒くさそうに母は言った。わたしが、「2週間で50万円」するイギリスへの短期留学に行きたいと言ったからだ。

中学生だったわたしは、シングルマザーの母に無理を言って、英語の勉強をしたかったわけでも、それに値する将来を考えていたわけでもない。

何でもいいから、恋するディカプリオの近くに行きたかったのだ。

そもそもディカプリオがいるのはアメリカだけど、日本という島を飛び出し海を渡れば、少なからずディカプリオに近づけると思っていた。

世間知らず。無知。またの名を阿呆とも言う。それが、中学生のわたし。

その後もディカプリオに恋をしていたけど、海外に行きたい願望は消えていた。

「この世には、海外に“行ける人間”と“行けない人間”が存在する」

高校を卒業し、専門学校に行き美容師として働くようになってからも、自分を「海外に行けない側の人間」として扱っていた。

20歳になる頃には、ディカプリオへの恋心は、消えかけたろうそくのようになっていた。代わりに、イギリスへの憧れが日毎に増していった。通販で買ったユニオンジャックの国旗を布団代わりにして寝た。イギリスに人生全てを捧げたいとすら思った。

イギリスにディカプリオはいない。だけど、ラッセル・リサックがいる。イギリスのロックバンド「ブロックパーティー」のギターリストだ。

月日が流れれば、好みも変わる。わたしの好みも年月を重ね、ロッキーでファンキーな趣向に変わっていた。ディカプリオを卒業し、ラッセル・リサックに半狂乱になりながら入れ込んでも、自分はまだ海外に行けない側の人間だと思い込んでいた。

おかんが首を吊ったら困るもの。

だけど、ふと。わたしは気付く。あれ、わたし、なんで海外に行けないと思っているんだろう。もう自分でお金も稼げるし、親元から離れ一人暮らしもしている。行こうと思えば行けるのだ。

殻は破ろうと思えば破れる。

そうか、怖かったんだ…わたし。

ただ単に知らない世界に飛び込むのが怖いから、何かいいわけが欲しかったんだ。

ミーハーなビビり。それが、20歳のわたし。

海外に自力で行けると気付いてからというもの、心はイギリスにいるラッセル・リサックに向かっていた。とある朝、ラッセルとロンドンのコベントガーデン駅前のカフェで待ち合わせをした。スコーンを食べ、アールグレイを飲む。わたしの阿呆な妄想は永遠に止まらない。誰も止められない。

いや、待てよ。

本当にイギリスに行きたいなら、仕事はどうする。忘れているぞ。わたしには週6で働く仕事があった。美容師という職業柄、1週間以上の休暇を取るのは、シンデレラが魔法使いの力を借りずに舞踏会にいくほど困難なのだ。

「ヴィダル・サスーンの技術を勉強したいです」
「ファッション最先端の街で感性を磨きたいです」

ロンドンに行く口実をキレイに整理整頓し、「少年よ大志を抱け」の言葉はわたしのために生まれたのだと言わんばかりに熱い理由を並べた。

「熱い若者は好きだ」と社長に承諾してもらい、当時働いていた美容院で前例のない2週間の連休をゲットした。表向きは、勉強熱心な美容師が、「ロンドンに美容を学びにいく」。そんな風にみえていたと思う。わたし自身もドヤ顔で、そうみせていた。

アシンメトリーなヘアーで豪快にギターをかき鳴らす推しに人生を捧げる23歳。それが、まだ日本から飛び立つ前のわたし。

出発日。わたしは、ジャージ姿で航空券を片手に握りしめ、膝をぷるぷるさせていた。

「やばい、どうしよう。これでもう日本の地も最後かもしらん…」

これから起こりうる未知との遭遇に恐怖を抱き、震えていたのだ。

その前に、なぜジャージ姿なのか説明しておこう。出発前夜、ネットで「イギリス 治安」とうっかり調べてしまった。そこに書いてあったのは「女性の一人旅はヤバイ!危険すぎる」「日本人は狙われやすい」など、震えあがるものばかり。これは、なんとか対策をとらねば、と思い立ったのがジャージだった。

キレイな格好をした女子より、ジャージを着ているほうがうさんくさくて、誰も近寄りたいと思わないだろう。小さな脳みそで考えた結果だった。

ジャージだったら、サッカー選手も着ているし、イギリスには有名なサッカーチームもたくさんある。トレーニングには欠かせないよね。ナイスなアイディアだと信じて疑わなかった。

先にネタバレすると、ファッションの街ロンドンでスポーツマンシップにのっとたジャージではない「おじいちゃんから受け継いだ茶色の肩に二重線が入ったラジオ体操に着ていく用のジャージ」は、完全にアウトだった。わたしは街の中ですかさず、アスリートのふりをした。歩く度に、足首や肩を回し、「大事な大会が間近に控えている」という顔を決め込んだ。

四捨五入するとただのバカだ。恥ずかしくなったわたしは、H&Mでロンドンっぽい服を購入することにした。

そんな辱めを感じるなどと知らないわたしは、ロンドン行きの飛行機という名の空飛ぶ大きなかたまりに、23年の人生と命を静かに預けていた。

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2週間の旅は、まるで天国のようにきらびやかなもの…ではなかった。わたしは、すっかり忘れていたのだ。英語が全く話せないと言うことを。

かろうじて知っていた5W1Hを死に物狂いで使い、顔で会話をした。あんなに顔の筋肉と全身を使って会話をしたのは初めてだったと思う。

それに加え、当時のレートが1ポンド250円。現在は約150円だから、倍近い物価だったと言える。通常150円で買えるコーラが250円するイメージだ。わたしは、一番損する時期に行っていた。なけなしの給料をコツコツ貯め握りしめて持ってきた現金は、光の速さで無くなった。無知を極めていたため、クレジットカードを持っているはずもない。

結果、最後の2日は空港で寝泊まりをした。

安宿を探すのに必死にならなくていい安心感からか、ほっとしていたのを覚えている。空港のひんやり冷たいベンチが五つ星ホテルのベッドに感じた。

餓えずに生き延びよう、と全神経を集中させていた2週間。ひたすらお金の計算をしていた。ヴィダル・サスーンの技術を習得するわけでも、ファッションを観察するわけでも、感性を磨くわけでもなく……。

四捨五入しなくてもただのバカだった。

計画性のなさに自分の首を絞める23歳。それが、始めて海外を経験し、日本にたどり着いたわたし。

イギリスの空気を吸い、なんなら中国を経由し北京の風を感じて、日本に帰ってきた。裸の大将ならぬ、ジャージの大将がジャージを脱ぎ捨てロンドンで買った洒落た服を身にまとい、関西空港に降り立った。

その瞬間、鉛でできた人生の門扉が、ぎぎぎっと開く音がした。

「海外に行けない人間」と思っていたのは間違いだった。自分の思い込みだった。

わたしは、行けた。一人で行けた。言葉を話せずとも、お金がなくとも。

自分の道は自分で作れる。

23歳の無知だったあなたに伝えたい。鉛の扉を開けてくれてありがとう。

一歩踏み出す勇気ひとつで、未来の扉、希望の扉、夢の扉、勇気の扉、可能性の扉が開かれ、想像すらしていなかった未来に連れていってくれる。

あなたのおかげで、天空の城だった「海外」が日常の世界になった。世界は、優しくて広かった。あなたの勇気がわたしの人生を輝かせてくれた。

15年後のあなたは、イギリス、ラオス、ニュージーランドで働いたあと、足のサイズがディカプリオと同じなスペイン人の男性と結婚し、二人の娘に恵まれ、海が見えるスペイン北部の静かな街でぽやんと暮らしている。

「海外に行けない人間」だったあなたは、4つの国で働き、不器用ながらも英語に加えスペイン語も話し、色んな国の友人との会話を楽しんでいる。

38歳、それが今のわたし。

こちらの記事は、「#私を変えた旅先の出会い 書きものコンテスト」入賞作品です

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