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「実践している勉強法」というお題を見た時、まず思い浮かんだのは、幼い頃、勉強がとても嫌いだったということだ。中学生くらいまでは算数や数学が好きだったが、決してそれらが勉強だと感じたことは無かった。当時は、ただただ問題を解く楽しみを満喫していたと思う。でも、答え合わせはするが、解き方をみることはなかった。大事にしていたのはスピードで、圧倒的なスピードで解く方法論を生み出すのが楽しかったのだ。今から振り返れば、自分が生み出したと思えた方法論も既に世の中には存在していたのは間違いな
6月初旬、ジムニーからジムニーシエラに乗り換えた。少し高速に不安があったからだ。4年近く乗ったが、今度はもっと長く乗ろうと少しドレスアップを始めた。手始めにオーディオ。iPhoneがつなげるディスプレイオーディオにした。スピーカーは2つから4つに増やし音を大幅に改善、リアシートの乗員で視界を妨げられる状態を防げるデジタルミラーも取り付けてみた。極め付けはレカロシートだ。以前もnoteに書いたが憧れのシートで、乗り心地と心持ちが段違いに良くなった。 慣れてくると、もう少しパワ
だいぶ以前から、アクセルとブレーキの踏み違えによる衝突事故が増えてきているように思う。昨年度は踏み違いによる事故が3000件を超えた。また、75歳以上による車の死亡事故の原因の1/4以上が「操作不適」によるものだという。高齢化社会において、移動手段の確保は必須だが、運転能力は歳と共に落ちていく。大きな社会問題となっており、なんとか対処しなければならないのは間違いない。 そんな中、国交相より新たな発表があった。来年6月から、日本が主導してきた「安全装置搭載の義務付け」に関する
30年以上前、理工学部の材料工学科で学生をやっていた。私が入学する時に、金属工学科から材料工学科へ名前が変わったこともあり、金属工学科のカリキュラムも多く残っていたのだと思う。実験の単位もあり、衝撃試験や切削加工、鋳造など、様々なものづくりを体験したものだ。その中で、一番印象に残ったのは、旋盤だ。回転する鉄の塊に、ダイヤルを回し、刃物を押し付けて、火花を散らしながら、ものすごい音と共に削っていく。町工場のような大学の研究所で、なんの変哲もない小さな部品を何個も何個も作ったのを
いま、自宅を含めて3つのオフィスがある。そのうち2つにはレカロシートが装備されている。第一の目的は、腰痛と首の痛みの軽減だ。以前乗っていた車のレカロシートにはとてもお世話になった経験があったからだ。 初めは、車のドレスアップ、つまりは単なるファッションのつもりで思い切って買ってみたのだが、実際に使ってみると異次元の体験だったとのを覚えている。まずはフィット感。身体カーブに沿って包み込んでくれる。そんな感覚だった。そして、しばらく乗って気づいたのは疲れない事。若い頃でもヘトヘ
4日前、約20年ぶりにお札が変わった。壱万円札、五千円札、千円札は、それぞれ資本主義、教育、健康を代表する偉人だ。まだ手に入れることは出来ていないが、Webページなどで見ただけでも、物凄い「もの」が作られたと驚いている。 渋沢栄一は埼玉県深谷市、津田梅子は東京都小平市、北里柴三郎は熊本県小国町の出身で、それぞれの街では祝賀イベントが開かれ、大いに盛り上がっているようだ。私の中で一番身近なのは北里柴三郎だ。父が北里研究所に勤めて、新薬の研究をしていたからだ。父に連れられ研究所
2025年5月に50ccのいわゆる「原チャリ」の生産が終了するというニュースが目に入ってきた。原チャリといえば、もう40年以上前だろうか。当時は、免許を持っていなかったのだが、友達に触らせてもらって、「これは凄い。世界が変わる。絶対乗りたい」と、強烈な印象を持ったのを覚えている。その数年後、16歳で原付免許を取りに行った。最初に買ったのはRZ50の中古車だ。友達に譲ってもらったのだが、ヤマハ製のギア付きのスポーツタイプのモデルだった。 思った通り、それまで乗っていた自転車と
小さい頃からお風呂は大好きだった。毎日お風呂の時間が楽しかったのを覚えている。要するに水遊びがしたかったのだ。水鉄砲と的を持ち込んで1時間くらい遊んで、よく怒られたものだ。その後、大学生になるとよく銭湯に行っていた。研究や遊びで家に帰らない日が何日も続くことがあったので、大学近くにある幾つかの銭湯を、その日の気分で使い分けていた。でも当時は銭湯代をケチって毎日行くことはなかった。頭が痒ければ大学の手洗い場で洗髪すればよかったからだ。 就職してからは目的が変わった。一番の目的
幼い頃は、無邪気にお医者さんになりたいと思っていた。母方の祖父も父方の祖父も医者だったので、なんとなく、医者になることが当たり前だったように思う。患者の為にと、自らの健康へのダメージなど気に留めず、両祖父は患者の全快に向けて、1年中働いているように見えた。そんな姿を見て、自分もたくさんの人たちの命を救いたいと思っていた。兄も同じで、兄は医者になるという強い志を立て、突き進んでいった。 自分の思いはすぐに砕け散った。「人の血」をみるのがとても苦手だと分かったからだ。それどころ
仕事の合間、少し時間ができるとスマホに手が伸びる。ミニカー屋を見つけると、とにかく入ってみる。何の気なしに歩いていて、ガチャガチャを見つければ、とりあえず一周して物色を始める。もう20年くらい続いている習慣だ。お目当ては、ミニカーとアニメのキャラクターだ。 まずミニカーの収集だが、最初は1台2台、憧れのスポーツカーになんとなく手を伸ばしたのが始まりだ。当時はマニュアル車を運転するのに夢中だったので、ミニカー自体にはあまり興味がなかった。ただ、もっと色々な車に乗りたいという感
ふと、石坂産業の石坂典子社長のリーダー論についての記事が目に止まった。叩き上げ、裸一貫、志という言葉がまさに当てはまる「先代の社長」であり、「典子氏の実の父親」でもある方との特訓の日々が語られている。絶対的な権力に挑んでいく、当時はそんな状況だったようだ。 長い話も仕事の中断も嫌いな先代社長に対しては、毎朝短い時間をもらったという。そこでは厳選して簡潔に準備した幾つかの提案を順序立てて話し続けた。おそらく最初は失敗の連続だったと思うが、身につけたことはなんだったのだろうか。
私が会社員であった時間は合計で30年くらいだ。最初の会社員は学校法人早稲田大学だ。理工学部の助手という立場で雇用された。大学には、博士課程に進学した学生の経済的な負担を軽減しつつ、ティーチングアシスタントが不足しているという現実の課題を解消しようという思惑があったと思う。週10時間にも満たない担当授業をつつがなくやりさえすれば、あとはとにかく自由な立場だった。そんな中で、博士論文を書くべく、欧米の一流紙への掲載に挑戦していた。 既に大学では、改革を進めなければという社会環境
先月、フランスの首相に34歳のガブリエル・アタル氏が就任した。任命したのは46歳のマクロン大統領だ。コンサルティング会社にいたので、30代で活躍することに全くの違和感はないが、一国の首相という役職を30代前半で、という事実には少々驚いた。 日本ではこのニュースを聞いて、日本の高齢政治を憂う声が出ているが、私自身は高齢だからいけないと考えているわけでもない。しかし、政治が未来を切り拓く責務を持つことから、その未来を担う世代自身がありたいと思う世界を作り上げるべきだとも感じてい
ものづくり好きとしては、ぜひとも訪ねてみたいと思っている場所がある。グランドセイコースタジオ雫石だ。どうやらコロナが始まった2020年のタイミングに竣工したらしい。グランドセイコーが誕生して60周年にあたる年だ。建物は隈研吾さんの設計で木材に溢れている。機械式の時計の部品はなんとも精密でワクワクしかない。1日中楽しめそうな予感がする。 私と機械式時計との出会いは、今から二十数年くらい前だ。前職の経営コンサルティング時代の師匠の一言だ。当時、時間などガラケーで確認すればいい、
大学の時、初めての就職活動をした。しかし、何かしっくりこない感覚があって就職はせずに大学院に行った。恐らくは、社会に出て何をやりたいかが分からなかったのと、大学4年間で全く手を付けなかった研究に興味を持っていたからだと思う。その後、「目指すは世界」が口癖の教授からの誘いにのって、軽い気持ちで博士課程まで行くことになるのだが、20代の後半入るまで就職とは縁遠い生活をしていた。 一番最初の仕事は、博士課程の学生をやりながら、学生の授業を受け持つ大学の助手だった。26歳の時だ。博
企業を健康で活力のある状態にする。こんな仕事に約25年に亘り携ってきた。短期間で結果を求められることも多かったので、いわゆる効率化という即効性のある薬を投じることもあった。そんな時、常に違和感を感じていた。人や設備を減らして、効率化して収益を生み出して何をするのだろうか。株価を上げる、増収増益を達成する。そんな理由を聞くたびに、そうした目標も重要だと感じていたものの、いま提供している価値を高めるとか、新たな価値を提供するとか、こうした目標の方が圧倒的に大事なのではないかと、強