前々回、久万高原町二箆(ふたつの)に伝わる『鵺伝説』について書きましたが、二箆の言い伝えには、もう1つ土佐の勤王志士『中島与市郎』の脱藩の話があります。
『鵺伝説』は、有名ですが『中島与市郎』については、久万高原町でも知らない人がほとんどで、二箆で何人かの高齢者に聞き取りしましたが、現在は語り継ぐ人もいない状態です。
私も『鵺伝説』の聞き取り調査をしていたときにいただいた資料の中に、たまたま二箆小学校で校長をされていた故相原芳愛先生が、まとめられた二箆の郷土誌の中で偶然見つけた次第です。
勿論、『中島与市郎』の脱藩の経緯については、土佐側にはたくさんの資料が残っていると思いますが、伊予二箆の住民の実体験の記録というのは、ある意味非常に価値があるものではないでしょうか。
したがって、あえて相原先生が昭和四十七年当時、地元の人から直接聞き取りをされてまとめられた記事をそのまま転載させていただきます。
与市郎は1842年に新居村(現・土佐市新居)の老役を務める郷士・中島曽平の子として生まれました。
長じて武市半平太に共鳴し土佐勤王党に入るが、やがて勤王党の弾圧がはじまり、半平太の投獄に及び脱藩を決意します。
1864年11月20日、いとこの中島信行・旧名中島作太郎(19才)と、村の庄屋の子で親族にあたる細木核太郎(26才)と佐川で落ち合い、伊予との国境をめざします。長州征伐において長州に助力するため、高杉晋作を頼っての脱藩だったようです。
上記の記事にもあるように、一度は国越えをするも足の痛みがひどくなり、脱藩を断念、両名と再起を約して引き返します。
名野川の番所に自首するものの、行き違いから番卒を傷つけてしまい、水ノ峠に逃れ大師堂に潜伏中のところを、追手に堂を囲まれて、目つぶしの灰弾を打ち込まれ、これ以上逃げる事は叶わぬと切腹をして壮絶な最期を遂げたのです。
土佐に引き返してから死に至るまでの経緯は、さすがに多少の違いはありますが、ほぼ二箆の伝承と一致しています。
与市郎が大師堂で腹を切って死んだという話は、数日後には二箆村まで伝わり、田辺千蔵さんの妻オトワさんは、すぐ花と線香を持って山を登ろうとするのを、
「勤王の賊を‥‥」
と言って千蔵さんが止めると、
「死んだ人に、賊も何もあるものけ」
と構わずにオトワさんは、二箆山を登って、はるばる水の峠まで与市郎の冥福を祈りに行ったそうです。
あと相原先生の聞き取りの中で、鎌倉幸三さんの話として『足止め』の話がでてきますが、中島家では長男の岩松が夭折しています。したがって二男の与市郎はかけがえのない跡取りだったのです。
そこで国境をでれば足が叶わなくなるという、足止めの灸を施していたそうです。また小説「水の峠」の中で、著者の里見二郎氏は、与市郎の遺書を見た母親が半狂乱で海を渡り、青龍寺の海雲和尚に足止めの修法を依頼していることを書いています。
相原先生も妙なことを書いているなと思っていましたが、この時代の風俗として『足止め』というのが、広く浸透していたということでしょう。
与市郎と別れた両名のその後ですが、
細木核太郎は、長州に渡り、高杉晋作の率いる遊撃軍に加わり、馬関や三田尻門などで活躍、慶応2年(1866)の幕府による第二次長州征伐の戦では、神機隊士とし安芸国佐伯郡宮内にて幕兵と戦って数々の勲功を上げています。
維新後は、高知で県庁勤務の後、故郷の新居村に帰り村長となっています。
一方、中島信行も長州の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍、龍馬の死後は陸援隊に参加しています。
維新後は、明治政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は、神奈川県令や元老院議官をつとめています。
また、自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となります。
保安条例によって横浜へ追放されますが、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選、第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任しています。(Wikipedia より抜粋)
与市郎の死は、一聞したところでは無駄死にだったように思えますが、その志は、このように細木核太郎や中島信行に受け継がれ、維新の原動力となったのです。
明治維新は、歴史に名を残した偉人達だけによってなされたものではありません。国を思う名も無き多くの志士達の遺志を繫ぎ、その思いが紡がれ成し遂げられたものなのです。二箆の伝承は、そのことをリアリティをもって私達に教えてくれているのです。