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悲運の勤王志士『中島与市郎』

前々回、久万高原町二箆(ふたつの)に伝わる『鵺伝説』について書きましたが、二箆の言い伝えには、もう1つ土佐の勤王志士『中島与市郎』の脱藩の話があります。

『鵺伝説』は、有名ですが『中島与市郎』については、久万高原町でも知らない人がほとんどで、二箆で何人かの高齢者に聞き取りしましたが、現在は語り継ぐ人もいない状態です。


二箆集落

私も『鵺伝説』の聞き取り調査をしていたときにいただいた資料の中に、たまたま二箆小学校で校長をされていた故相原芳愛先生が、まとめられた二箆の郷土誌の中で偶然見つけた次第です。

勿論、『中島与市郎』の脱藩の経緯については、土佐側にはたくさんの資料が残っていると思いますが、伊予二箆の住民の実体験の記録というのは、ある意味非常に価値があるものではないでしょうか。

したがって、あえて相原先生が昭和四十七年当時、地元の人から直接聞き取りをされてまとめられた記事をそのまま転載させていただきます。


二箆小学校跡地

二箆最奥のヨラキレ部落に住む、鎌倉幸三さんという今年九十才の老人から聞いた話である。

幸三さんの父親鎌倉清太郎さんは、高知県吾川郡名野川村に生まれ、七十八才で亡くなられたそうであるが、清太郎さんが十才の時、隣村大平村の伯父片岡菊太さんの家へ子守奉公に行っていた時の出来事である。

庭先で子守をしていると、大勢の役人と百姓が鉄砲をさげて通るので、何事であろうかと、伯父に訪ねると、
「昨年脱藩した土佐の坂本竜馬の思想に同意する、中島与市郎と中島信行と細木核太郎という三人は、上方の坂本龍馬を尋ねるため、脱藩を決意し、吾川郡名野川渡りの百姓西森梅造の道案内で、関所を破り、大明河峠に向っていた。藩は名野川村・大平村など庄屋五家頭に、『村で獅子砲を持っている者は全員集合させ、池川・大崎村の者と合流して、大明河峠に向っている四人を必ず生け捕りにしろ』との、命令を出した」
とのことであった。

文久・万延・元治といえば江戸末期で、天誅・暗殺は流行ともいうときで、勤王幕府の動乱が激しく、山村ではまだまだ勤王はといえば、国賊視されていた時代である。

名野川から二箆に抜ける道を土佐街道といい、土佐街道は鎌倉時代に付けられたもので、土佐から伊予に通じる路である。高知との県境の地蔵峠を過ぎれば、二箆山の尾根をはしる土佐街道で、その頃の二箆山はぶなの木の大木が鬱蒼と繁り、猿もたくさん棲息していたという。

近年大火に見舞われ、営林署が植林しているが、ぶなの焼根が現在でも随所に見られ昔の面影を忍ばせている。

さて、三名の者は、大明河峠を通り、高森山(標高一三二七㍍)の水の峠を越え、地蔵峠を過ぎ、二箆山に向かったが雪が深く、思ったように足も運ばず、日は暮れ、終に二箆山の途中から下に見える二箆部落に下り、現在の小学校すぐ横の田辺千蔵(妻オトワ)の家に辿り着き、一夜の宿を請うたという。何も知らないオトワさんは、風呂を沸かし、濡れた着物を囲炉裏で乾かしてやり、親切にもてなしたという。

何処の人で、何処に行くのか聞いても、「上方に用事で行く」という以外の事は、一言も言わなかったという。三人の内で一人は足を腫らし痛みを訴えていたが、翌日は暗い内にお礼をいって二箆山に向ったという。

その翌日になり、水の峠で勤王の賊が殺されたと聞き、一昨夜泊まった三人の客のひとりであることを知り、千蔵夫婦はびっくり仰天したという。

ここで付け加えておきたいのは、三名が泊まったということは、道案内の梅蔵は国境まで案内をして、旧中津村の久主に下りたのである。後に分かった事であるが、梅蔵は土佐に帰れば殺されるので、郷里に帰らず、そのまま大正中頃まで久主に住んでいたという。

またこの話は、オトワさんが娘の田辺イシヨさんによく話していたものを、イシヨさんが長崎部落にいる友人の西田マチさんに、また、マチさんが息子の全次さんに話したものを聞き取ったものである。
 
中島与市郎が足を悪くし、二箆から水の峠まで引き返したということは、『足止め』を食らっていたからだと、鎌倉幸三さんはいう。『足止め』とは、与市郎の親が、子可愛さに家から離したくないので、神に祈願をかけていたからだという。

田辺を出て二箆山頂に辿り着いた三名の内中島与市郎は、足腰の痛みがますますひどくなり、遂に上方へ行くことを断念し、信之らと別れを告げ、もと来た道を引き返し、名野川に辿り着いたが、何さまにも取り締まりが厳しく、再度水の峠に引き返し、峠にある大師堂の中に隠れ養生しているところを、捜索隊の鉄砲組に発見され、奮戦数時間数発の弾に身を打ち貫かれて、遂に二十三才の生涯を閉じたのである。

その後、この大師堂は小さいものに建て替えられたが、それまで弾痕などが多数残り、その凄まじさが偲ばされたという。
その後、誰の手によるものか、国賊のようにいわれ問題はあったが、いつしか水の峠に与市郎の亡骸を弔う墓石が建てられ、墓参の人も時々見かけられたという。

二箆部落の人々は、今でも中島与市郎先生で呼ぶところをみると、勤王の志士であるばかりでなく、二十三才の若武者でありながら、武芸博識の士であったようにも思われる。

先日、ここに詣で、静寂の山頂に鎮座する石仏に、百余年の歴史と革命の非惨な爪痕に思いを起こし、冥福の祈りを捧げて帰った。現在墓石はなく、これに代わる石地蔵が隅田幸平氏の手によって安置されている。

大師堂の小さい境内に碑石が建っており、其の側面には、『元治元年(一八六四)十一月二十四日二十三才・同志中島信行(作太郎)等とともに脱藩し、途中足どうを患い一行と別れ、堂内に籠り、養生中、捕吏民兵に囲まれて憤死す』とある。

この碑文を読んでみると、鎌倉幸三さんや田辺さんの語り伝えもなるほどとうなづけるものがある。しかし、私の不十分な研究調査で将来に禍根を残してはと心配しないではないが、高知県といえども隣村の出来事でもあり、二箆に関係ある事なので、二箆以外の地であまり知られていないので、世に少しでも紹介したいと思い、簡単に纏めた次第である。

昭和四十七年十二月九日

相原芳愛著
二箆集落より見た土佐街道が走る尾根

与市郎は1842年に新居村(現・土佐市新居)の老役を務める郷士・中島曽平の子として生まれました。
長じて武市半平太に共鳴し土佐勤王党に入るが、やがて勤王党の弾圧がはじまり、半平太の投獄に及び脱藩を決意します。

1864年11月20日、いとこの中島信行・旧名中島作太郎(19才)と、村の庄屋の子で親族にあたる細木核太郎(26才)と佐川で落ち合い、伊予との国境をめざします。長州征伐において長州に助力するため、高杉晋作を頼っての脱藩だったようです。


水の峠につづく尾根道より望む池川地区と土佐の山並み

上記の記事にもあるように、一度は国越えをするも足の痛みがひどくなり、脱藩を断念、両名と再起を約して引き返します。
名野川の番所に自首するものの、行き違いから番卒を傷つけてしまい、水ノ峠に逃れ大師堂に潜伏中のところを、追手に堂を囲まれて、目つぶしの灰弾を打ち込まれ、これ以上逃げる事は叶わぬと切腹をして壮絶な最期を遂げたのです。

中島与市郎殉難の地

土佐に引き返してから死に至るまでの経緯は、さすがに多少の違いはありますが、ほぼ二箆の伝承と一致しています。

与市郎が大師堂で腹を切って死んだという話は、数日後には二箆村まで伝わり、田辺千蔵さんの妻オトワさんは、すぐ花と線香を持って山を登ろうとするのを、
「勤王の賊を‥‥」
と言って千蔵さんが止めると、
「死んだ人に、賊も何もあるものけ」
と構わずにオトワさんは、二箆山を登って、はるばる水の峠まで与市郎の冥福を祈りに行ったそうです。

あと相原先生の聞き取りの中で、鎌倉幸三さんの話として『足止め』の話がでてきますが、中島家では長男の岩松が夭折しています。したがって二男の与市郎はかけがえのない跡取りだったのです。
そこで国境をでれば足が叶わなくなるという、足止めの灸を施していたそうです。また小説「水の峠」の中で、著者の里見二郎氏は、与市郎の遺書を見た母親が半狂乱で海を渡り、青龍寺の海雲和尚に足止めの修法を依頼していることを書いています。

相原先生も妙なことを書いているなと思っていましたが、この時代の風俗として『足止め』というのが、広く浸透していたということでしょう。

与市郎と別れた両名のその後ですが、
細木核太郎は、長州に渡り、高杉晋作の率いる遊撃軍に加わり、馬関や三田尻門などで活躍、慶応2年(1866)の幕府による第二次長州征伐の戦では、神機隊士とし安芸国佐伯郡宮内にて幕兵と戦って数々の勲功を上げています。
維新後は、高知で県庁勤務の後、故郷の新居村に帰り村長となっています。

一方、中島信行も長州の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍、龍馬の死後は陸援隊に参加しています。
維新後は、明治政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は、神奈川県令や元老院議官をつとめています。
また、自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となります。
保安条例によって横浜へ追放されますが、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選、第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任しています。(Wikipedia より抜粋)


中島信行

与市郎の死は、一聞したところでは無駄死にだったように思えますが、その志は、このように細木核太郎や中島信行に受け継がれ、維新の原動力となったのです。

明治維新は、歴史に名を残した偉人達だけによってなされたものではありません。国を思う名も無き多くの志士達の遺志を繫ぎ、その思いが紡がれ成し遂げられたものなのです。二箆の伝承は、そのことをリアリティをもって私達に教えてくれているのです。


中島与市郎の生誕地(土佐市新居)
中島与市郎の墓(土佐市新居)

是レ余ガ従兄中嶋君ノ墓ナリ。君、資性篤厚、親二孝ニシテ兄二悌、人二接スルニ礼アリ郷党ノ愛慕スル所卜為ル。幼ニシテ千頭真之助ノ門二入リテ剣ヲ学ビ、其ノ所謂(いわゆる)中伝ナルモノヲ授ケラル。又好ンデ書ヲ読ミ夙(つと)二憂国ノ志ヲ懐(いだ)ク。会(たま)タマ徳川氏ノ末路外交ノ事興ルヤ、尊王攘夷ヲ唱フル者少ナシト為サズ。然リト雖(いえど)モ昇平三百年、士気衰弱シ国歩陵遅(りょうち)シ、本州ノ如キモ亦夕尚ホ且ツ一日ノ計ヲ為ス者多シ。君慨然トシテ振袖(しんしゅう)ノ志有り、窃(ひそ)カニ余二謀リテ曰ク、今ヤ諸藩因循(いんじゅん)ニシテ共二謀ルニ足ラズ、依リテ以テ志ヲ成スベキモノハ其レ唯長州ノミナラン乎(か)卜。是二於イテ細木元太郎及ビ余卜相率イテ家ヲ出デテ伊予二至ル。偶(たま)タマ君病発リテ行コト能ワズ。当時ノ藩制請ハズシテ境ヲ出ヅル者ニハ重典(じゅうてん)アリ。君ヲ扶ケテ行ン乎、事遂二敗二帰スルヲ奈(いか)ンセン。君ヲ捨テテ行カン乎、情ノ忍ブ能ハザルヲ奈ンセン。君其ノ意ヲ察シ声ヲ励マシテ曰ク、卿等行ケ復夕余ヲ以テスルコト勿レト、終二涙ヲ揮(ふる)ッテ訣別ス。君帰ッテ州境二入リ菜川(なのかわ)ノ水嶺(みずのとう)ノ神祠(ししん)二入リテ困(つか)レ臥ス。時二吏卒数人追イテ至リ、土民数十ヲ率イテ之ヲ囲ンデ銃及ビ石灰ラ乱発ス、君終二屠腹(とふく)シテ死セリ。年二十三、実二元治元年十一月二十三日ナリ。君諄(いみな)ハ清州、通称与市郎、曽平翁ノニ男ナリ。其ノ長ハ岩松、君二先ンジテ死ス、故二君ハ家ヲ嗣グト云ウ。抑(そも)ソモ時勢一変シ、前(さき)二国事犯ヲ以テ論ゼラレシ者多クハ朝二列シ栄ヲ蒙ル。君ニシテ尚アラン乎、其ノ功名栄達何ゾ諸士ノ下二出デン。而(しこう)シテ其ノ志ヲ遂ゲラレズ中道ニテ難二斃(たお)ル。哀シイ哉、噫(ああ)。
明治十七年十二月
従四位 中嶋信行撰 妻岸田俊書

贈従五位 中嶋与市郎墓碑銘



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