長慶天皇と直瀬郷
おらが村の天皇
おらが村の天皇といえば、長慶天皇をイメージされる地方の方もたくさんいらっしゃるかもしれません。
それほど北は青森県三戸地方から、南は九州太宰府まで、長慶天皇にまつわる伝説が語り継がれる地域はたくさんあり、長慶天皇御陵地というのは全国に100以上あるといわれています。
そして私の生まれ故郷である久万高原町直瀬にも、長慶天皇の陵墓とされる石碑があります。
長慶天皇とは
南北朝時代の南朝は二代の後村上天皇の代に、重鎮の北畠親房を失うとともに弱体化が著しく、さらに三代の長慶天皇の代には、和平派の楠木正儀が北朝に降ったことで、和平派が台頭し、その勢力によって穏健な皇弟煕成を擁立する動きがあったとみられます。
おそらく、北朝に対して強硬派であった長慶天皇は孤立化を深め、譲位を余儀なくされたのではないでしょうか。
本来、皇位継承は「即位礼正殿の儀」の正式な儀礼に則って三種の神器が受け渡されるものですが、手ずから後亀山天皇に渡されたという逸話もあることから、不本意な退位だったことがうかがえます。
譲位後2年程は院政を敷いていたようですが、元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消しています。
これらの事象を背景として、南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説が生まれ、全国に御陵伝説地が点在することになったのでしょう。
伊予伝説における足跡
では、各地に残る伝承をもとに長慶天皇の足跡を辿ってみたいと思います。
紀州から四国の阿波に渡った長慶天皇は、伊予の新居の御所寺に入ります。新居というのは、現在の新居浜市と西条市の大半の区域を言いますが、御所寺がどこにあったのかは不明です。おそらく天皇が逗留された寺であったことから御所寺と呼ばれたのではないでしょうか。
衣干八幡神社
やがて讃岐の管領細川の知るところとなり、来襲を察知した得能の先導のもと、夜半密かに小舟にて逃れ、翌朝越智の国府の浦に上陸します。
現在の今治市の海辺の町、衣干町には、小さな小山の上に神社があり、社名を衣干(きぬぼし)八幡神社といいます。社の前には人が腰掛けられほどの大きな岩があり、その岩と神社の名前の由来について由緒にはこのようにあります。
光林寺
ここから楢原山山頂の奈良原神社に向かいますが、まず麓の奈良原神社の別当寺であるところの光林寺に入ります。
ここには現在、先代の住職が建立したという長慶天皇の真新しい供養塔がありました。
祓川
楢原山の登山口手前の河原は祓川(はらいかわ)と呼ばれていますが、長慶天皇が禊ぎをされた場所であることからこの名がつけられいるそうです。
いかにも白砂の川底の上を透き通った清流がゆるやかに流れていて、禊ぎを行われたとしても不思議ではない風情を漂わせています。
奈良原神社
また長慶天皇は、楢原山には牛の背に乗って入山されたという伝承が残っています。
そこから奈良原神社は牛馬の守護神としても近隣農民の間に広く信仰されるようになり、楢原山を中心とした各地には、奈良原神社の分社が数多くあります。
社標の台座の上には、銅製の牛のレプリカが置かれていました。
下の写真は、奈良原神社の御神体で、中央上が牛に乗った長慶天皇を模した御神体です。
さて、なぜ長慶天皇はわざわざ標高1000m超えの楢原山に登り、奈良原神社に参ったのでしょうか。
中世最強のパワースポット
奈良原神社は古来から霊験あらたかな神社として知られていたようです。古文書に下記のような記述が見えます。
また、昭和九年二十六日に、奈良原神社境内で雨乞いの準備中、経塚が偶然発見され、発掘したところ全高71.5㎝の銅宝塔が掘り出されました。
中には写経を巻物にして納めてあったと思われる真っ黒に腐食した巻き寿司のような形の物があり、その巻物の跡が底に13個付いていた。
宝塔自体は平安時代末期のものですが、経塚の上に建てられた石製多宝塔の台座に建徳二年(1371年)と銘記されていることから、この年にここに改葬されたものと思われます。
建徳二年は長慶天皇の在位中であり、宝塔表面に刻まれた梵字による曼荼羅は吉野曼荼羅の可能性が高いこと、また副葬品の品々からそうとう身分の高い人物によるものであること、これらのことから、南朝の復興を願う長慶天皇の意向によるものではないかとの推測もできます。
したがって長慶天皇にとって思い入れ深い奈良原神社で、自ら南朝の復興を祈念すべく、あえて奈良原神社に参ったのではないでしょうか。
十門城
奈良原神社を後にした長慶天皇一行は、尾根道を辿り東三方ヶ森を越え、重信川上流にある十門城に向かいます。
城山の登り口重信川左岸には、「長慶天皇行在之地」の立派な石碑が建っていました。これはこの山の上にある「麓」という集落出身の加藤俊行氏(元石手寺住職)によって建てられたようです。
この城は、南北朝時代には得能左馬助通興の居城であったといわれ、戦国時代には加藤遠江守が守っていたと伝承されています。
おそらく加藤氏はその末裔であると自認されていたのではないでしょうか。
ちなみに、麓集落で城への登り方を尋ねたお宅も加藤さんでした。
御所
十門城登り口から重信川を数百メートル下ったところに、御所というバスの停留所があり、その前には御所橋という車通行禁止の板張りの橋がかかっています。
どうやらこの対岸の丘陵地が、長慶天皇が一時住まわれていたとされる黒木の宮のあった場所だと思われます。
現在は空き家が2軒と耕作放棄地となった田畑が数枚、荒れた墓地がありました。
旧記には、「久米郡山之内の御所」となっていたので、久米周辺を探していたのですが、現在の東温市(旧温泉郡)の重信川上流は、かつては久米郡であったようです。
久万菅生山大寶寺へ
翌年、浮嶋の宮をへて、いよいよ久万菅生山大寶寺の理覚院に入ります。
当時は、六十六部廻国巡礼が盛んで、一国一巡礼地に、伊予では大寶寺が選ばれていました。また、保元年間、後白河法皇が病気平癒を祈願したところ、霊験があったので、勅願寺として再建、妹宮を住職として下向させたこともあり、大寶寺は朝廷との関わりも深かったのです。
長慶天皇が大寶寺へ足を運ばれたとしても不思議ではありません。
ここから直瀬への行程は不明ですが、おそらく当時大寶寺の奥の院とされていた岩屋寺へ参った流れで、直瀬へと落ち延びてこられたということではないでしょうか。
直瀬の長慶天皇伝説
以下は直瀬の郷土史研究家菅良太郎氏他有志が、直瀬の氏神、五社神社縁起に記されていた「長慶明神縁起」をまとめられたものです。
諸先輩への敬意を込めて、そのまま転載させていただきます。
五社神社長慶天皇神縁起から
文中二年(1372)六月、河野伊予守通定、兵庫介通範父子は覚理法皇(長慶天皇)を守護し、直瀬村奈良原神社(段組堂ノ窪にあったという)に潜匿し奉った。
このとき法皇は畏くも女人の御姿にて人目をさけ給い、楠木次郎左衛門尉正盛等数人の朝臣は百姓の扮装であったという。
その後奈良原神社を出て地主(段組にあり現在も地名が残っている)に住まわれていたが、遂に北朝に探知され、文中二年十月二一日武田、小笠原介道鎮の家来数十人、温泉郡河之内郷より攻め寄せた。
覚理法皇一行はやむなく地主を出て段奥の本谷の立床まで進み朝臣楠木氏などは百姓共に竹やりを持たせて防戦した。
朝から暮れ方に至るまでの合戦の末、武田方はついに敗北し大将を始め一族郎党ことごとく討死した。立床は死山、血河の凄惨を極めたといわれる。
また一説によれば、武田、小笠原は剣山まで逃れたが、ここで突き殺されたともいわれ、岩穴に祠を建て剣を祀ったともいわれており、これ以後この地を「剣権現」と読んでいる。
また、この合戦で戦死した朝臣楠木次郎左衛門尉正盛の遺骸を芳志(段奥)に葬り祠を建ててねんごろに弔った。「芳志権現」といって、今でもその地名は残っている。
この合戦に討たれた者の血潮は流れて「大血屋敷」(中組小椋秀雄氏宅東側)に溜まり、更に流れて、明神駄場の下の淵(麻生田)で七日七夜滞っていたという。
この年に疫病が流行、多数の死者が出たので、これは段奥で戦死した武士の祟りであるということで、この淵の水を汲み取り明神駄場に埋め供養塔を建立し、村人こぞってこれを供養したという。
この供養塔(板碑、自然石)は旧下組堂屋敷(大墓)にある。覚理法皇は、この合戦に多数の従者を失い、遂に藤原朝臣藤実郎と楠木正儀主従十余名となり段組の地主を出て永子を越え嵯峨山に向かわれた(永子と段との境に天皇越という地名が残っている)。
嵯峨山(下畑野川)に潜匿された覚理法皇は、都のことなど忘れがたく、侍臣に都の話を遊ばされ、東の空を望み黙すること多かりしとか。
弘和三年(1383)夏になり、覚理法皇は疫病に罹り給い、里人などの心尽くしもその効なく、七月一四日朝後崩御あそばされた。宝算五二歳。
里人などの悲嘆やるかたなく藤原卿は、都鳥(鳩)の脚に御辞世を結び付けて放したところ、桟敷山(直瀬明神駄場)の桜に宿り後、東の空に向かって飛び立ったという。このことから御遺骸を桟敷山に葬り奉り長慶明神としてあがめ奉った。
直瀬の恵光山淨福寺に長慶天皇の御位牌が安置されていたが、昭和二年の火災により焼失してしまった。
覚理法皇御崩御の七月一四日には古くから供養が行われていた。仲組の幟を先頭にして、永子、段、下組の各組が幟を押し立て、明神駄場に集まり念仏を唱えた後、淨福寺に引き返し百万遍の念仏を唱えて解散していた。
長慶天皇伊予入国はなかった?
芳闕嵐史では、大寶寺来訪の後、長慶天皇は、再び浮嶋の宮にもどっていたようです。攻め寄せた武田・小笠原と徳威原で激戦の後、負傷され、法水院にて崩御されたとあります。
これに見える長慶天皇御陵は、東温市重信町の浮嶋神社の北西二百メートルのところにあります。ただし、現在の御陵は平成四年に、有志の手により改修されたものです。
この浮嶋陵については、明治時代に大騒動があったようです。
長慶天皇御陵の顕彰運動の顛末
明治になると天皇国家の建設の影響を受けて、長慶天皇の研究も深められていきました。それにともなって、これこそ長慶天皇の御陵であると名乗りを上げたところが多かったようです。
『伊予温故録』の著者宮脇通赫氏は、明治39年5月20日から17回にわたって愛媛新報(現愛媛新聞)に『聖蹟発揚録』と題する論文を掲げ長慶天皇の御陵墓の顕彰に力を入れています。
地元においてもこれに呼応して、明治41年7月16日、大西良実外16名の者が宮内省へ次のように願い出ています。
願書を提出したことが新聞に報道されると大きな反響がありました。宮内省も捨て置くこともできなくなり遂に調査に踏み切ったのです。
進達書類や論拠となっている諸旧記については東京帝国大学において研究させ、現地へは専門の係官を派遣して調査することとなりました。
明治に41年11月、二日にわたって宮内省と県の係官が現地調査をして帰りました。また翌年の10月には諸陵山口鋭之助が来県、牛淵、野田、下林、津吉などの遺跡を調査しました。しかし、論拠薄弱で、あれほど大々的かつ長期にわったった顕彰運動もあっけなく幕を閉じざるを得なかったのです。
上記は、歴史研究家の別府頼雄氏が『東温史談』1984年第3号に寄稿された「長慶天皇御陵の謎」から要約させていただいたものです。
直瀬長慶明神陵の真偽やいかに
長慶天皇伊予伝説のもとになっている旧記のほとんどは、「芳闕嵐史」などの俗書といわれるものが中心です。
よって、実歴との年代のずれや登場人物の矛盾などが随所に見られます。
そして、直瀬の五社神社縁起の中の「長慶明神縁起」も「芳闕嵐史」をベースにして書かれてるといわれています。したがって、これまた根拠薄弱の指摘を受けざるをえません。
ただ、先人達がおらが村の天皇として、代々語り継いできたその思いは1つの郷土史として大切にしていかなければなりません。
そういった意味でも今は途絶えてしまった長慶天皇を祀る「百八燈」もなんとか復活させることができないものかと思います。
今回長慶天皇について記事を書くきっかけになったのは、郷土史「ふるさと久万」第七号に恩師大野勝美先生が寄せられた「長慶天皇の伊予入国説をめぐって」のくくりの一節です。賛意を込めて、私もこの一節を記事の締めとしたいと思います。