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夢でみる子らは、いつでも子どものままなのだ。

 息子がいる。

 以前、美容院でまあごくふつうのごあいさつ会話として、「うちにも息子が2、3人いてねー」といったら、とても繊細な対人配慮のゆきとどいた美容師さんは「そう、ですかあ」といった。その「そう」と「ですかあ」のあいだのコンマ1秒に満たない空白にはっと気づいた。つい数字を適当にいうクセがある我は、わが子の数まで適当にいって、相手をムダに当惑させてしまったらしい。いかんいかん。「いや、正確には3人」といいなおすと、ほっとした笑顔を浮かべて「3人のお母さんなんですね」といった。

 てなわけで、子どもの話だ。

 最初にいえば、もう我はそこそこのトシであり、その2,3人ではなく、はっきり3人いる息子らは、もはや可愛くもなんともないデカイ大人になっている。もちろん、かつては違った。彼らは生まれたときから、こんな親を見下ろす子ではなかった。当たり前だが。そして我もまた、殊勝な母だった。

 長男が生まれたとき、起き上がることも、自分で乳を飲むこともできない存在をまえに、「ああ、この子のために、自分がいるのだ」と強く思ったことを覚えている。どこかから預けられた命。自分ではない誰かのために、生きている、生きなければいけない と生まれて初めて思った。それまでは、生きていてもいなくても、どっちでもいいやとさえ思ったりもしてたのに。

 その決意を忘れさせまいと神が仕組んだのか、次々と弟が生まれた。子らはトシが近く、こちらもネが粗雑なタチなので、なんだかわちゃわちゃとひとまとめに育て続けた。やがて最初の崇高な母性愛は薄まり濁ってはいったし、時々怒鳴りちらしたりしたが、ありがたくも大きな困りごともなく時がすぎた。気がつくと、3人ともでかくなり、今は家を出て、それぞれの生活をはじめている。それもまた、当たり前であるから、ほいほい、がんばっといでと自然に受け入れた。まあこういうもんだろう。よくいわれるほど、あんまり寂しくもない。自分はいささかドライな方かもなあ、と。

 ところが、

 たまに見る夢に子らが登場すると、彼らはいつも、「あのときの、わちゃわちゃ騒々しかった幼い子どもの姿」で現れるのだ。でかい子らとは、今でもまあよく会っているのに、夢の中での子どもの時間はとまったままだ。そして、あの時と同じように、子どもじみた言動で、こちらをハラハラさせてくれる。

 前回見た夢は長かった。戦争だかが起こって、家族で旅に出ていたが何とか生き延びようとする夢。荒れはてた町を寝場所をさがしてさまよう。たまたま人けがなくなった元ホテルの様な所を見つけて宿にしようとする。だが、その騒動のさなかに息子の一人が姿を消してしまう。「どこいった~!」とあわててさがしていると、ちっこいあいつがどこかで捨てられていた自転車を引きずって帰って来た・・とかね。

 それにしても・・と思う。

 「子どもは、いつまでたっても子ども」とは、もしかしてこのことではないかとポンと膝をうつ。親からすると「子ども時代の子ども」こそが、わが子だという印象が強いからだろうし、それはつまり自分以外の存在のために生きなきゃと思っていた、あの時の自分との再会でもある。

 今じゃこちらもトシを重ねて、自分のことを考えたり、したりする時間のほうが断然多い。そんな今、子らが昔のままの姿で夢に登場するのは、自らへの戒めなのだろうか。

 祈ることは、今もあの頃もただひとつ。

 生き延びよ。我の屍を踏み越えて。でもやさしく踏みたまえ。いや、踏まずに飛び越えよ。そっちのほうがいいや。

 

 画像は「みんなのギャラリー」からお借りしました。Thanks.

 

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