富士山双子山トレッキング体験記
(2019/11/18に書いた日記です。今まで、誰に見せるともなくWordを使って日記を書き溜めていたのですが、岸田さんのキナリ杯をきっかけに、noteを始めてみました。)
トレッキングから帰った、次の日の朝。目を覚ましたのは8:00過ぎ。
これでもいつもより早起き。
ふと肩に痛みを感じる。筋肉痛だ。昨日背負っていったリュックサックはそれほど重くなかったはずだ。斜面を踏ん張るために、肩にも力が入っていたのだろうか。
山での体験は、素晴らしかった。「非日常体験」というよりも、「日常生活がどれだけ素敵か」を知ることができる1日だった。
リュックサックを枕がわりにして青い空を見ながら昼寝する。休憩中に食べるお菓子、お昼ご飯のサンドイッチと、お湯を沸かして作ってもらったチキンラーメンに、食後の甘いミルクティー。寝ることも食べることも、日常生活で当たり前にしていること。しかし、場所が山になっただけでこれほどありがたく、おいしく、幸せに感じたことがとても不思議だった。
山に登りながら、考えたことがある。
大学生になると、無料で楽しく運動できる場所というものがぐっと減る。グラウンドはないし、ジムやただのランニングは長続きしないし、部活動ほど強制されたくもないし、スポーツクラブに入ろうとするとお金がかかる。
そこまで頭の中で喋って、次の瞬間には、「山って最高の運動場所じゃん!」と思っていた。しかし、楽しさに浮かれて忘れかけていたが登山は無料ではない。今回は、一人当たり一万円ほどお金を払って登山口までの車を出してもらったり、登山家のマサに安全を確保してもらったりしている。それがなければ、ここまで快適なトレッキング経験はないといってもいい。加えて、自宅~御殿場間の往復交通費とお昼ごはんは自前だ。あれ、むしろ貴族の遊びじゃないか?うーん、残念。山もダメか。
でも、もし全部自分でできるようになったら?
それは「手の届かない非日常のお高い遊び」から、まさに「自分のしたい遊び」に変えることができる。宇宙開発の仕事をしている植松努さんの言葉を借りれば、「誰かがしてくれるサービス」ではなくなるということだ。自分のしたいことに向かって、知識と経験を蓄える。山に来て、とてもいいことに気づいてしまったではないか。ワクワクする。楽しそうだ。
とここまでまた一人で考えて、自分でもびっくり。毎日ネガティブ思考を大切に抱きかかえている私は珍しく、山でポジティブ人間になっていたのだった。
そしてもう一つ。山にいると自然と人にやさしくできるのかもしれないとも考えた。山では、物事が非常にシンプルだからだ。
スマホの電波は届かない。トイレがないから、草木に隠れて用を足す。前を走っている人が目の前で思いっきり転んだり、雪を触りにもっと上まで行こうという提案があったり、思いもよらないハプニングや奇跡が起こる。買い物するお店がないから、お金は必要ない。人は損得など考えずに食べ物をシェアして、ことばをシェアする。実際、トレッキングのホストである登山家マサの一家は、ものすごく優しい話し方をする人たちだった。声も、言葉選びも。山で育った彼らが、人は優しくなれることを証明していた。
私は残念ながら自分のことを優しい人間だとは思わない。(下山して、ネガティブな心を取り戻した。)だから世界中のいろんな優しい人に会うたびに、憧れる。いつかは彼らみたいになりたいと願っている。優しい人と時間を過ごすととても幸せな気分になれるから、自分もそういう幸せな雰囲気を配ることのできる人間になりたいのだ。
「また山に登りたい」と思った。でも山に通えば優しくなるのか、といったら答えはNOである。だから、「すべてを山に頼るのは違うな」と思った。自分の住む小さな世界での経験と感覚と、そこに置いてきた様々なことがあっての山だな、と。
「人生は山登りと一緒だ」なんてよく聞くけれど、昨日はその言葉が本当にその通りだと思った。「またまた、うまいこと言っちゃって」と思っていたけれど、山登りをしたから、よく分かる。
はじめはこんな高い山に登れるのか、とビビっている。それでも一歩を踏み出せば、踏み出し続ければ、ゴールが見えてくる。登る前には見えなかった町の風景や湖が見える高さまでくる。自分の足音と、風の吹く音しか聞こえなくなっても、そのあまりの静けさに一瞬恐怖を感じても、それを「美しい」と思ってしまう。さっきまで登っていたところがあんなに小さく見える。頂上に着き、まわりの景色を見てまもなく大の字で寝る、そのときの達成感。とんでもないほど最高だ。
優しい人間になりたくて、私は山を登る。時に足を滑らせ、遠回りしながら、これからも登り続ける。