書物の転形期17 パターソンの洋式製本伝習2:居留地の製本師2
横浜の洋式製本師
伊藤泉美は横浜居留地の中国人印刷業についての論考の中で、開港当初の横浜では印刷業を身につけた者は引く手あまたであり、そうした状況の中で香港や上海で印刷技術を身につけた中国人が進出してきたと述べている。そしてその中には、英字新聞社等に雇われるのではなく、独立して店を構える者もいた。
伊藤論によれば、中国人の印刷業者は印刷・製本・文具の三種を兼業している。これは前回見た中国の居留地の状況と同様である。そして、その印刷業は製本から始まっているということも、中国の居留地で増加していた中国人製本師が渡航してきたと見ることができる。前回参照した "China directry" には横浜の情報も記されており、横浜の英字新聞が発行していたディレクトリーもある。これら初期の日本居留地のディレクトリーは、『ジャパン・ディレクトリー 幕末明治在日外国人・機関名鑑』の1・2巻(ゆまに書房、1996)に復刻されている。まずは伊藤論を参照しながら、製本に力点を置き直して横浜居留地の中国人製本師の活動を確認したい。
伊藤論が「横浜における中国人製本店の嚆矢であろう」とするのは、1865年6月17日横浜発行の英字新聞ジャパン・ヘラルドに載った製本店である。
このリン・シン(Lyn Sing) の広告には「あらゆる種類の製本」とあるので、洋式製本も行っていたであろう。1868年の香港発行のディレクトリー "Chronicle and Directory" には居留地81番でやはり製本店を営んでいる。同じく居留地81番で製本店を営んでいたのがチー・チン(Che Ching)である。しかし、両者ともこの1年しか記載されていない。
Lyn singとChe chingがともにbook binderとして記載されている。The Clonicle & Directory, 1868, 内閣文庫蔵(E27064)
伊藤論がその次に挙げているのが1870年のジャパン・ヘラルド発行のディレクトリー("Japan Herald Directory")に名前が見えるナム・シン(Nam Sing)である。伊藤論によればナム・シンは1880年までディレクトリーに記載がある。だが、初期の記載には揺れが見られる。1870年の "Japan Herald Directory" と1872年のジャパン・ガゼット発行のディレクトリー( "Japan Gazette Hong list and Directory") では "Chinese Book-binder" と記載されている。中国式の製本(線装本)のみを扱っているようにも見えるが、一方で同じ1872年 "Japan Gazette Hong list and Directory" 掲載の広告では次のように記載されている。
製本とともに罫引き(Ruling)を行っている。これは帳簿などを製作していることを意味する。やはり洋式製本を行っていたと考えるべきだろう。 "Chinese" は単に「中国人」と解釈するべきだろうか。ただ、1872年の "Japan Herald Directory" では、ナム・シンは "Lemonade Manufacturer" と記載されており、同年の"Japan Gazette Hong list and Directory" の記載と食い違っている。単なる記載ミスか、それとも居留地らしく多業種を兼業していたものか。ナム・シンは比較的長く活動していたようで、1881年発行の『横浜商人録』(大日本商人録社)にも「Book-Binder & Ruler. /製本師及ヒ界引師」と記されている。
ナム・シンの広告。The Japan Gazette Hong List Directory, 1875, 内閣文庫蔵(E008155)
横浜で1872年頃から1908年まで店を構えていたというマーカンタイル・プリンティング商会は、伊藤論が代表的な中国人経営の印刷店として取り上げている。1872年の "Japan Herald Directory" の81番地に "WING HING. /Bookbinder." と記載されているのが最初である。1875年の "Japan Gazette Hong list and Directory" の広告では "BOOK-BINDER" が大きく上段に掲げられ、その下に "RULER," とある。さらに "Book-binding and Ruling done in the Best Style" とあり、製本と罫引きを行う帳簿製本を主軸とした製本店だったことがわかる。伊藤論によれば1885年頃に52番地に移転し、"Mercantile Printing Co." と名前を改め、1897年頃には2人の植字工、3人の印刷工、8人の製本職人が働いていたという。伊藤論に掲載された1902年の広告には "Stationer" という記載も見え、文具店も兼ねていた。
Wing Hingの記載。The Japan Herald Directory, 1872, 内閣文庫蔵(E000787)
Wing Hing の広告。The Japan Gazette Hong List Directory, 1875, 内閣文庫蔵(E008155)
このように見てくると、やはり中国人技術者の場合は、製本師が先行して横浜居留地に入ってきたと見ることができる。そのうち独立した工房の大半が製本と罫引きを行っており、居留地の帳簿製本や簡易な実用製本といった文具としての製本が中心だったと考えられる。『横浜市史』は当時の横浜の中国人について次のように述べている。
横浜居留地には広東系の職人的中国人が多かった。1875年の製本店Lee Shingの広告には "FROM CANTON" とある。
Lee Shingの広告、同上。
『横浜市史』は、明治20年の横浜中国人店の調査が多くの職人的職種を列記している中に「製本および活版」4軒があることを報告している。同書は「かかる職業分布をみると、広東系中国人の特徴であるといわれている技術系統の職業が多いことがやはり明白になる」としている。
当時の横浜の製本職人の活動を直接にうかがい知る資料は今のところ見当たらない。ただ、広告で製本と並んで記載される罫引きの職人については、当時横浜で陽其二が経営していた印刷会社景締社の社員だった星野錫の次のような逸話がある。
罫引きの職人として二人の中国人職人が高給で雇われている。印刷技師と同様に罫引き技術を持つ職人が居留地では需要があったことをうかがわせる。結局、中国人職人の技術を盗んだ星野が、社長に掛け合って彼等を解雇させた。罫引きの技術は洋式簿記法という最新の情報処理法に必須のテクノロジーだった。つまりこのエピソードは150年前の技術盗用のひとこまなのだ。そして罫紙をまとめる製本の技術もまた必須であったことは、中国人の製本工房が製本と罫引きを兼ねていることからも明らかだろう。事実、景締社の後身である東京製紙分社は1879年に各府県の簿記が西洋簿記に改正される際に、紙幣寮から職工2名、技師2名を雇い入れて簿記帳の製造を始めた。当時紙幣寮には印書局の洋式製本職人が引き継がれていた。これは、パターソンが伝習した製本技術の中に、帳簿製本の技術が含まれていたことの傍証にもなるだろうが、罫引きと同様に製本もまた新たな情報技術として居留地では価値を持っていた。
このような苦労話の根拠は十分にあったと考えられる。
しかし一方で、ディレクトリーの中に欧米系の製本工房や製本師の名が見えないのも、香港や上海と同様である。これも理由が分からない。欧字新聞社は居留地で印刷所や文具店を兼ねている。例えば "Japan Mail" の新聞広告は次のようなものである。
"BILL BOOKS" "CHIT BOOKS"といった冊子は簡単な製本がなされていたであろう。ただ、輸入文具か自前で印刷製本したものかはこの広告からは判然としない。しかし、ディレクトリーのように欧字新聞社の名前で居留地で発行されたいくつかの洋装本が現存している。次にその製本を見てみよう。(この節つづく)
2023.7.3訂正
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