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想像することで生まれてくるものに気が付いた

 つい先日、プロアマ問わず様々な文章に触れる機会に恵まれた。どの作品もレベルが高く、面白かった。私も物を書き始めて大分経つが、それらの作品と自作を比べて、やっぱりまだまだ全然ダメだと落ち込んだりした。それなりに書けているんじゃないか?という出所不明な少しの自信も粉々の散り散りになって、もう本当にグロッキー状態だった。
 まあでも、そんな事をしていても文章力はあがらないので

 ――いや、落ち込んでばかりいられるか!初心にかえって勉強し直してやる!
 
 と、沈みまくっていた自分を無理やり引き上げた。負けず嫌いの性分もあるが、やっぱり書くのが好きだった。

 で、とりあえず今までの自分と文章を見直す事から始めようと思った。

 今までは、講座に行ってみたり指南本を読んだりしてはいたが、書き方はほぼ我流。なんとなく書き続けてきた文章だった。しかし、それではダメだった。少なくとも、1回粉々の散り散りになった今の私には物足りなくなっていた。
 
 やっぱり基礎がなってないんだ。じゃあどうやって基礎を作ろうか。

 そうだ、芸というのはまず真似る事からだと意気込んで、どうせ真似るなら文豪だ!と本棚から夏目漱石の『こころ』を引っ張り出した。そして毎日数ページずつ書き写している。そうしていく中で、分かってきたことがある。

 小説というものは、読者にテーマや真実や過程を示すだけではなく、人物や心理、風景描写で読ませるものだという事。

 いやそれはそうだろ、何当たり前な事言ってんだと、今自分で書いていてツッコんでいる。しかし残念ながら、今まではこれが満足に出来ていなかった。小説の醍醐味に、読者の立場でなら気付くのに、いざ書き手に回るとスポーンと頭から抜けて、あれ?なんか面白くない文章になるな。なんで?と頭を抱える。おい。

 先程のプロアマ混合の文章の話に戻るが、私が読んでいてコレは面白い、好き、傑作だ!と思った作品は、そのどれもが『読んでいて楽しい』ものだった。ページを繰る手が止まらないというか、止め時が分からないというか。それで、なぜどんどん読み進められるかと考えて見てみれば、2つの理由が浮かび上がった。

①読者に"想像させて楽しませる"描写 

②予想もつかない着眼点

 ①については、『こころ』の書き写しの話に戻って語ってみる。私がもう声が出るほど感動しまくった一文を引用する。鎌倉での夏休み、浜辺に建てられた掛茶屋、今でいう海の家についての描写だ。

"彼等は此所で茶を飲み、此所で休息する外に、此所で海水着を洗濯させたり、此所でしおはゆい身体を清めたり、此所へ帽子や傘を預けたりするのである"

 一見、ただ事実を並べ立てただけに見える。だが、これを読むだけでその掛茶屋がどんな風に建っていて、人々がどんな風に過ごしているのかがはっきりと目に浮かんでくる。"たり"で連続していくイメージが一つ一つ組み合わされて、最後には立派な掛茶屋となって頭に浮かぶ。

 特に凄いと思ったのは、"此所へ帽子や傘を預けたりするのである"という部分。これの凄いところは、今目の前に帽子や傘がないのに、何故か読者の想像のうちで預けられたそれらの映像が浮かぶ、その一点に尽きる。

 だって私には見えた。壁にまとめて立てかけられた傘の束に、棚に積み重ねられた帽子の山なんかが、それはもうはっきりと。これはきっと、傘はこうまとめられていて、帽子はこんな風に置かれていて、なんて書くより、読者はずっと楽しい。

 想像しながら読む。だから楽しい。今更ながら思い出した。悔しい。

 勿論、細かく描写する事は、物語の舞台を作っていく上で重要なものでもある。ラスボスの城ならその重要さが読者に伝わる様に書かなければいけない。しかし、この『こころ』で掛茶屋の描写はさして重要でない。ただ漱石の流石のところは、最低限の彩りで最高の描写をしているところにある。書き写しについてはまだ始めたばかりなので、今後更にもの凄い描写が来るのだろうなと、今から身構えている。とても楽しみだ。

 小説はある程度、読者の想像力を使ってお話を語っていく必要がある、と私は思っている。アイテムや風景に対する共通イメージがあって、それを強化したり、時には覆したりして読者に想像してもらう。そして楽しんでもらう。

 で、読者に想像力を使ってもらうには、作者自身が読者以上の想像力をぶつけていくしかないのである。殴り合いである。いや違うか。お互いの想像を融合させて、イメージした物を更に進化させる。ゲームや漫画でもおなじみの手法だ。そして、融合した物はおおよそ強い。面白くなる。

 ならどうやって読者以上の想像力を出すか。それはもう簡単。とにかく書く、それだけだった。

 いや知ってるよ、と総ツッコミをくらった気がしてくるが、このnoteは一種の反省文であるから、そこはもう本当にお目こぼしをして欲しい。

 想像するには書いてみる。単語でも感情でも感想でも良いから、とにかく書いてみる。

 今、目の前にリンゴが1個あったとして、それを想像しながら書いてみる。

 リンゴか。赤い。よく熟している。甘そう。美味しそう。嘘みたいに丸い果物。誰が食べるのか。そもそも本物のリンゴか。そういえばリンゴは原罪の象徴だな。だとしたら知恵がついてしまうのか。いや、今更知恵がついたところで何になるんだ。

 ――と、今だらだらと書き連ねてみた。どうやらリンゴを目の前にした人物は少しひねくれた性格らしい。作者だろうか。

 次に『登場人物』という要素を考えながら書いてみる。小さい女の子にしてみる。

 リンゴだ。真っ赤だ。つやつやな赤い丸だ。お日様みたいだな。とってもおいしそう。おやつかな。今日はぜんぶ食べていいのかな。お母さんは、お兄ちゃんはいないのかな。ぜんぶ一人で食べたいな。なんだかドキドキしてくるなぁ。

 この女の子には、リンゴは特別なものらしい。普段なら母や兄と分け合うリンゴを、女の子は今一人目の前に見つけ出して、内緒で食べてしまおうかどうしようか、ワクワクしながら見つめている。そんな風景になった……気がする。

 で、こんな風にとにかく書いてみる。風景も入れてみる。台所だったり、もっと別の場所でもいい。とにかく登場人物になりきって、出てくるイメージをみんな書いてみる。とにかく要素を出し切って、それから文章へ組み立てていく。描写にしていく。そうしてから推敲する。決して最初から綺麗に組み立てた文章にしようとしない事。私の悪い癖だった。

 ここで②の話に繋がる。予想も付かない着眼点は、まさにこの想像力から生まれてくるからだ。

 いや、平凡な自分は突飛な考えとか浮かばないから。無理無理。

 と、昔は落ち込んでいた。とんでもない発想や着眼点を目の前にしては、あんな風に考えられるようになりたい!でも考え方を真似たところで自分が1から作り出したものではないよな……と、何を考えても二番煎じになる気がしていた。ただ、今はそれも少し変わってきた。

 私は既婚者で、夫とはよく話をする。これについてこう考えてみたんだけど、こう思うんだけど、あなたはどう思ってる? みたいな会話を特にする。とにかく、思ったこと、感じたことを口に出してみる癖がついた。夫はいつも素直に受け取って、ちゃんと返してくれる。これについては本当に感謝している。そして、分かってきたことがある。 

 ええ、それ見てそんな風に思うの?意外だね、みたいに驚かれる事は、実はそんなに珍しくないのだ。自分の中の常識は誰かの非常識。逆もしかり。自分が何気なく考えている事が、他人には刺激的だったりする。

 よーく観察して想像してみれば、自分だけの小さな気付きを見つけられる。私はそう思う。だから何でも、自分で感じて発信していくことが大事だ。

 想像力は常識で縛りきれない。自由で奔放でメチャクチャなやつだ。そのメチャクチャが面白いのだ。だから作ってみたくなるのだ。

 まずは想像すること。これに尽きる。それを忘れたらきっと何も作りだせないし、誰かに伝えることも出来ない。自身のイメージを受け取ってくれる誰かの為に、まずは全力で楽しんで想像してみる。整理してみる。分かりやすく、分かりにくく作ってみる。読者の想像力をかき立てるものを作る。これが物書きの、読者の最大の楽しみではないだろうか。反省と共に、これからも胸に刻んでいきたいと思う。

 うん、書くのは楽しい。やっぱりまだまだ書いていきたいな。



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