先祖は飛騨の大名だったが越中八尾に逃げて500年隠れていた
最も古いご先祖様は中臣鎌足
大化の改新を助けた豪族
その後藤原姓を授かり、平安時代に栄華を極めた藤原北家の一門
小一条流、藤原道長の従兄弟
藤原氏一門の上位は藤原という姓ではなく、住んでいた場所の名が冠せられるのが通常
近衛家:藤原基実の長男・基通が京都近衛殿に居を構えた
鷹司家:近衛家実の四男・兼平が鷹司室町に居を構えた
九条家:藤原忠通の三男・兼実が京都九条殿に居を構えた
二条家:九条道家の次男・良実が二条京極に居を構えた
一条家:九条道家の三男・実経が一条室町に居を構えた 等々
僕の先祖は、京都御所の近く、姉小路に邸宅があっため「姉小路氏」と呼ばれる
藤原師尹を祖にする小一条流藤原氏
14世紀、後醍醐天皇の勅命により飛騨の国司として赴任した参議姉小路家綱の子孫
姉小路国司家は土着するにつれて、三兄弟が小島・向・古河の三家に別れる
いずれも居城のあった地域名を名乗っている
姉小路古河家は小島・向を破り、本家を名乗るようになるのだが、数代後に戦国大名の三木氏によって飛騨を追われる
飛騨を脱出する時に、今の国道471・472号沿いに北上し、八尾地域(現在の富山市八尾)の布谷という村に隠れた
おわらの盆で有名な場所から車で30分ほど山奥に入った場所
道中、古河という一行が悪者退治をした逸話が民族史に残っている
名字帯刀を許され、村の長的な立ち位置だったらしく、居住地は古河屋敷と呼ばれていた
敷地内には滝があり、そのわきに太郎平不動明王が今も鎮座する
この場所で500年近く居住したのち、明治の中期に私の祖父にあたる人物が富山師範学校に学び、京都大学の土木学部を経て、鉄道省に入省し、線路やトンネルの設計技官として勤めた
大正時代に熱海・函南間を結ぶ丹那トンネル工事の折にトンネル熱海口の近くに居を構え、工事人夫を相手に酒屋・雑貨屋・女郎屋を営んで財を成した
酒屋だけ残っていたが、僕の代でM&Aをして、僕は熱海を出た
僕は姉小路古河氏の嫡流で、父の長男
でも、父親は5男だし、祖父も3男で長男ではないのに世帯主を継いでいる
古河家には古くからの継承者のルールがある
それは嫡流である親の水取りをすること
つまり、葬儀をつかさどる事だ
そして、残された男兄弟は古河を名乗らない
近代で分家は古川、井波、瀬戸など、古河以外を名乗っている
このルールは明治時代には破られたが、
古河を名乗った分家はことごとく途絶えている
このルールは物部氏や古代天皇家の末子継承と似ている
物部氏の分家と想定される中臣家でもそれに習っていた
大河ドラマで有名な藤原道長も末っ子だった
姉小路家を継いだ古河も末っ子だった
僕は父の長男だが、父の葬儀を司り、男では下が居ない
そもそも姉小路だと教えてもらったのは、
富山の親戚が急に訪れた30年前
八尾布谷の墓がある場所に道路が建設されるので、墓石の移転許可を僕の所に取りに来て、系図とともに嫡流であるとにわかに言われた
判子だけ推して親戚が帰ったが、酒屋を辞めて時間が自由になった20年前ごろから富山は意識していた
しかし、布谷をノンタンと発音していたので、ノンタンという地名を探しても出てこないから半ば諦めかけていた
10年前に親戚の法事があり、実は富山の親戚が古河の直系で、姉小路の末裔って言われたんだよ、と言うと
「うちにも来たよ。だからお前のことを教えたんだ」
「のんたんは布谷って書くんだよ」
ほうほう、親戚は知っていたんだ
で、8年前に初めてその地を訪れた
最初は墓を探した
村の中ほどの共同墓地に古河家の墓を見つけた
500年もたっているコケだらけの墓だった
村の中ほどにある神社に行くと、入口に100年ぐらい前の家の配置が書かれた石碑を見つけた
その中に古河古屋敷と書かれた場所があって、そこに行くと屋敷は無く(道路を通すために埋め立てられた)、川のせせらぎが聞こえる少しの広場と、道向かいに滝があった
そういえば熱海の家のそばにも川が流れていて、箱庭のような庭に滝が作られていた
祖父がこの場所を再現したのだろうと思った
鬱になって2年行けていないけど、また、村を訪れて墓参りをしたい
出来れば、墓を動かすか、もう少しましなところに移動したい