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古代日本のまとめ

1,倭人が渡来する前の日本列島

1-2世紀の列島と朝鮮半島

倭人が渡来する前の日本列島には、東には後に蝦夷・アイヌと呼ばれる原住民族がいた
彼らは戦う事を嫌い、30-80人規模の集団となり、狩猟し移動しながら暮らしていた
縄文式文化ともいう

また西には今の沖縄を本拠地とする球磨族が島を伝い北上し、九州に至っていた
こちらも主に狩猟民族であるが戦いに長け、短期間に土地を制圧していた
原を「バル」と発音することから、九州全域に至っていたと言える

蝦夷は鈴鹿山脈の東側に居住し、熊襲は九州に至るにとどまっていた
多少の文化の交流はあったかもしれないが、両者が民族的に交わることも戦う事もなかった

2,弥生式を営む倭人の道のり

倭人は朝鮮半島を経由して日本列島にたどり着いた民族である
朝鮮民族とは姓・名前が違い、多くは交わることは無かった

南朝鮮には弁韓・辰韓・馬韓という3つの民族が相容れずに居住し互いにけん制していた

倭人の渡来経路

そのうちの最も日本列島に近かった弁韓(加耶韓国・加羅・任那ともいう)から海を渡って渡来したのがヤマトの祖となる

対馬島・壱岐島を伝って航行するのが最短
しかし、季節によっては偏西風が吹き、潮の流れも速くなる
そして、目的地は自然に出来た静かな湾である必要がある

自然の湾

壱岐対馬を伝わる一団は九州北部に静かな港を見つけて至り、平地に田畑を広げて定住する
船に乗せた馬は弱り多くが死ぬが、壱岐対馬に放牧して、短距離を徐々に移動させて九州北部にも放牧した

一方、海流や風に流された一団は出雲に至り定住する
馬は荒れた海で全滅する
が、八岐大蛇で有名なたたら場を手に入れ、鋼を生成して、強靭で鋭い刀を手に入れていいた

九州には馬のあるヤマト、出雲には武器に長けたヤマトが占領地を広げていった

3,原住民族との交わり

2-3世紀の列島と朝鮮半島

山深い出雲ヤマトは船を使い、小さな港を置きながら東西に勢力を伸ばした
東へ進むうちに蝦夷と遭遇するが、平和を好む蝦夷とは緩やかに同化していった
同化を嫌う蝦夷は戦うことなく東へ移動する

九州ヤマトは平野を拓きながら勢力を拡大していった
しかし、先住民であった熊襲族の攻撃に村を襲われて食料を奪われることが頻繁になり、出雲ヤマトに救援を求めた

4,出雲と九州 馬と道

出雲は住民も増え栄えていたが馬がいなかった
八百万の語源となる800の村々を束ね、年に一度村の長(カミ)を一カ所に集めて統制を計っていた(神有月・神無月の由来)
移動も主に海路で都市は港を中心に山間部に広げていた

九州のヤマトからの援軍要請に船団で答えようとしても海路を西へ向かうには困難が伴った
出雲は九州とつながる道、しかも大軍団を送ることが出来る広い道を作る

現在の国道9号線に近い道

山が迫る崖で塞がれれば最短距離の迂回をしながら、数年をかけて関門海峡までの道を完成させ、出雲は大軍団を九州へ上陸させ、熊襲への攻撃を加速させた

5,統一ヤマトと王族

出雲ヤマト族にはスサノオという大王が君臨していた
スサノオの父はフツと言い、加羅から一族を率いて出雲に移住し、八岐大蛇のたたら場を奪い、鋭い武器を得て出雲を統一した
スサノオは出雲の豪族の娘の櫛稲田姫を娶り、父の地位を継ぎ、出雲を拡大していた

スサノオには8人の子供がいて、その中でも布留という御子が最も勇敢で強い軍団を率いていた

スサノオは布留を伴って九州に上陸し、熊襲を破り平定して統一ヤマトを築いた

スサノオは地元の豪族の娘で呪術者的性格に長けた卑弥呼を現地妻として九州を治めた

スサノオの死後は出雲の8人の子供の末子の入り婿である大国主が王を継いだ
卑弥呼は自分の娘を大国主の現地妻として徐々にその力を蓄えた

6,出雲と九州の戦い

大国主の死後、統一ヤマトの後継者を巡って出雲と九州が対立した
九州は大国主の九州の末子である一言主を王とすることを望むが、2代の王を出した出雲はタケミナカタを後継者にと担いだ
九州ヤマト軍は山陰の道を遡って出雲を攻めた
実りが豊富な九州のほうが圧倒的に人口が多く、大軍団も編成できた
タケミナカタは戦いに敗れ、海路越の国(現在の新潟)を経由して糸魚川を遡り信州の諏訪湖に逃げのびた(諏訪大社)

この一戦は出雲の国譲りとして後世に語り継がれる

しかし、その出来事を良しとしない勢力があった

7、奈良のヤマトと、統一

父のスサノオと九州を平定したのち、新天地を求めて奈良地方を拓いた布留は、出雲の国譲りを快く思わなかった

布留が開いた奈良地方は広い盆地で守りに難く、また人口も多く、何より武力に長けていた

九州のヤマトは奈良のヤマトと合流すべく、承継者である磐余彦命を布留(饒速日)の娘に入り婿させ、統一王朝となった
布留の子孫(物部氏)は代々の妃を送り込み、権勢を誇った

ヤマトの統一王朝は、卑弥呼(大日巫女尊命・天照大御神)と饒速日命(天照国照大御神)の2柱を国の祭神として祭った

数百年の後、朝廷の事情から出雲系の神々を排除する必要があって、各地の風土記は廃棄され、出雲系の神をまつる神社の祭神の名を変更した(701年延喜式)

これが日本の真実である

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