好きこそ物の上手なれ
人生の中で好きなことをできている、もしくはやりきったと言える人はどれくらいいるのだろうか
私は単純に人と山(自然)とコーヒーと旅が好き。
自分の思考の壁の打開の手伝いをしてくれるのは、自分自身と他の人の手伝いがあってこそだし、人から生まれるクリエイティブな考えが大好き。
山は自分をクリアにして、感動を与え、何が必要で何がいらないのかを教えてくれる。
これは生きるという生命と今という時間を考え、自分という小さな一存在を与えられる。
コーヒーは朝の始まり、そしてコーヒーを挽く音から香りと人間の五感を全身で感じさせてくれる。
全てのことをリセットさせてくれるし、呼吸を整え、自然との協和がある。
旅は様々な気づきを与えてくれる。
同じ場所に定住して、新しいことが日常と化し、当たり前になるように、それから逸脱することで見えることがたくさんある。
私は短期間で転々とするよりかは、少し長期で滞在して、その国を知って振り返ることが特に大好きだ。
今はその全てを手に入れていて、山は比較的少ないけれど、好きでやりたいと思っていることを叶えてやれている。
だからこそ幸せな今を築けていると思っている。
強いて言えば、もっと山に行きたいとも思ったりもするけど、今も捨てれないから無い物ねだりかなと思っている。
もちろん、これらをする過程までにも最低限のお金は必要だった。
お金が欲しいという感情はないのだけれど、始めるまでに稼ぐという過程はもちろん必要だ。
その矛盾は取り除けないのだけれど、あれもこれもと思ってしまうとお金という言葉に縛られて、安定という言葉にすがり、我慢という言葉を言い聞かせ、時間の有限性に気付いた時には遅かった。
ヒッチハイクをしている時に少しこの話をされたのだけれど、やりたいと思うのだけれど、昔ほど熱意が上がらずに腰を下ろした状態のままになるのだと。
あと数年で仕事も終わるという歳になれば、働くという行為が人生で終わるからやりきろうとなって、そしたらあと数えれるくらいしかやりたいことはできなくなっているのかもしれない。
もちろん、今の年齢で全てを捨てて幸せと言えるけれど、全部に対して不安がないと言えば嘘になる。
時々感情の整理がいかず、叫びたくなるような時もあるし、これに至っては時間が経って、そして今という時間にならなければわからない。
いや、そもそも未来のことなのだから考えてもその時にならないとわからないのに、まだ具体性のかけらもないのに何を言っているんだと落ち着くのだが。
何かに属するという安心感はないけれど、その分自由に生きているから見ている景色は多いと思う。
企業という経済の流れや、マインドというものはわからないし負けるとは思うけれど、自分の専門性のある分野に関わらず、色んな分野で取り組んでいる人と出会う。
それぞれに問題があって、いいところがあって、その人たちにしかわからないようなことに対して熱心に語る。
特化はないけれど、見る世界が多いと考えさせられる内容も多くて、自分のちっぽけな世界も遠くから見ていた景色もピンポイントの場所をズームしてくれる。
そんな感覚で、自分の好きをやりながらも自分のやりたいことを模索する。
大方固まっているけれど、まだまだ無垢で可能性がたくさんある私のクリエイティブな思考が満足していないのだ。
この人と繋がっていたいと思える人がいるのだから、その人の考えや想いに共感しているからこそ方向性は定まったはず。
あとは限界を超えた先の限界のクリエイティブを続けて、私が好きを超えた何かに向かって楽しめるように。
プランの段階だけれど、面白いことが実現できるようにもっとたくさんの人と繋がって広げて共同企画できるようになろう。
ご支援いただいた分は海外移住への未来の投資とコーヒーの技術向上に使わせていただきます。