舞台演劇に出ることの、善しと、悪し
いつぶりかわからないくらい久しぶりにnote書きます。今回は劇団員や演劇畑ではない、よくいるフリーでマルチな活動をしている若手タレントが、舞台(演劇)に出ることの善しと悪し、というテーマです。
ちなみに、チケットノルマや集客などのお金に関する話ではありません。少しだけ関係しますが、あくまで芸能活動の一環として舞台に出ることについて、です。
最初にお断りしておきますが僕は舞台が大好きです。自慢できるほどの観劇回数があるわけではありませんが、観劇の機会があれば極力行きますし、大きな劇場だけでなく、いわゆる小劇場とか、もっと小さな、10人入ったらギチギチみたいなところでも、お仕事で関わらせていただく時も非常に楽しいです。
コロナ以前は、東京で小劇団が主宰するイベントに単発で参加するフリータレントの相談に乗ったり、マネジメントをすることがよくありましたので、特にその時に感じたことが中心になります。
舞台のメリット
僕は、あるゆる芸能ジャンルの中で、演劇(役者業)がもっともすごい、と思っています。
まず、求められるスキルの多さ。演技力はもちろん、立ち方、歩き方、所作、発声、滑舌、役者同士のかけあい、ミュージカルであれば歌唱力やダンス、舞台用のメイクや特殊な衣装の着こなしと、モデルやアイドルや芸人、歌手やダンサーなど、あるゆる芸能ジャンルで使うスキルが演劇の世界には詰め込まれています。
それだけでなく、殺陣や、能、歌舞伎、日本舞踊などの古典芸能に至っては特殊技能の域ですし、常に「ライブ」である舞台では、咄嗟のアドリブ力も試されます。
また、台本を読み込んだり、朗読劇に必要な国語力、時代劇なら歴史の知識など、芸能の枠の外でも勉強になることもたくさんあります。
前に別のところでも言ったことですが、モデルしかできない人は役者にはなれないが「モデルの役」ができる役者はモデルも役者も両方できる、ということです。
それだけでなく、長丁場の稽古や本番を乗り切る体力、集中力、健康管理、スケジュール管理など、デキる社会人としての能力も必要とされます。
舞台の演技と映像の演技は違う、というような点もありますが、マルチタレントを目指す若手の方なら必修と言っていいレベルで、舞台の経験を積んで欲しい、とさえ思っています。
そうでなくとも、演技と無関係なジャンルのタレントでも、芸能活動をする人なら、ぜひ教養として舞台を見に行って欲しいと思います。
文化・芸術としての演劇
教養、という言葉を使いましたが、現代の演劇の源流は中世頃に誕生した能や歌舞伎などの古典芸能、さらにその源流は、古代の神楽祭祀に遡ります。
舞台で「降りてきた」というようなことを言う時がありますが、それもそのはず、演劇文化の発祥は、巫女(演者)に神が降りてくる(神を演じる)ところかスタートしているのですね。
そんなわけで、演劇というのは、音楽や絵画と並ぶ、人類の歴史上最古級の芸術であり、またそれができる人達は昔から(良くも悪くも)専門職、特殊技能の持ち主とされていたわけです。
※ 日本で芸能の神様とされるアメノウズメノミコトは、日本神話の中でも有名かつ重要なシーンで登場し、その後、猿女氏という、朝廷の芸能祭祀を司る一族の祖となったといわれています。芸能の神様はこの国で最も古く、格の高い神様の一柱なのです。
さて、演劇畑でもない人間がつらつらと偉そうに語るのはこのくらいにしておいて、次からはタレントマネージャーの視点から見た、舞台の''悪し''について語ってみたいと思います。
舞台に居ついてしまう
舞台に居ついてしまう、とは一体どういうことでしょうか。
端的に言うと「舞台(劇団)にどっぷりとハマってしまい、視野が狭くなっている状態」です。
僕はそれを舞台に居ついてしまう、と呼んでいます。
では少し昔語りになってしまいますが、実際に体験したことを書こう思います。
芸能界を夢見て上京した新人タレント
コロナ禍よりも前ですが、東京で芸能活動をしている20歳の女の子から相談を受け、マネージャーとして契約していました。
彼女は、地方の出身で、地元でちょっとしたアイドル的な活動をしたり、FMラジオや演劇サークルの公演に参加するなどしていて、20歳になってもっと飛躍するために上京した、という、まぁよくあるといえばよくある感じの芸能志望者でした。
当時、東京では小劇団がそうした、事務所や劇団に所属していないタレント志望や役者志望の子を集めて、イベント的な公演を定期的に開催する、ということがよく行われていたようです。
小劇団のミニ公演が、フリーの芸能志望者や新人タレントの受け皿になっていたわけですね。
集まってくる人も多様で、彼女のような人の他、地方でローカルアイドルをしていて、東京の大学進学と同時にグループを卒業して上京した人、東京でインディーズのシンガーソンクライターをしながら、活動の幅を広げようとしている人、地下アイドル兼グラビア業をしながら、女優業へシフトしようとしている人など、実に様々です。
小劇団がそうした新人たちの受け皿になっているとはいえ、それはあくまで一時的なものに過ぎませんから、公演が終わったらその後はどうしよう、どうやって活動しよう、と彼ら彼女らは悩んでいました。
高額な入所料が必要な事務所のオーディションを受けるのか、フリーのままでやっていくのか、どちらにせよ生活費やレッスンはどうしよう、そもそもどうやったら芸能の仕事にありつけるのだろう、というような相談ごとを当時、Twitterなどを通じて色んな方から受けていました。
彼女もその中の一人だったわけですが、彼女はラジオに出ていたこともあるように、元々は声の表現が好きで、声優志望でした。
そのため、声優スクールやボイストレーニングに通うかたわら、出演できそうな舞台の募集を自分で探して応募する、ということをしていました。
が、そのままではその先をどうしたらいいのかわからず、そこから飛躍するために僕に相談し、マネージャー契約をするに至った、というわけです。
正直に言って、彼女はタレント志望者として、そこまで有望でありませんでした。ただ、20歳で単身上京してきたことからもわかるように、やる気はありましたし、真剣でした。
僕もマネージャー業を再開したばかりで、お互い、まずはできることからコツコツやっていこう、ということで、どんなことをしたいか、何をすべきか、など夜まで何度も話し合ったり、営業の仕方を知らなかった彼女のために、宣材やコンポジを揃えるところかはじめていきました。
さて、そんな彼女にひとつの転機が訪れました。
東京の、そこそこ大きな劇団が主宰する舞台のオーディションに合格し、今までの小劇場とは客席数のケタが二つ変わるような大ホールでの公演に出演できることになったのです。
彼女にとっては、初めての「大きな舞台」ですから、全力で稽古に打ち込みました。今までの新人や若手ばかりを集めた舞台とは違う、セットも共演者もスタッフも本格的な舞台の経験は大きな刺激になったと思います。
そして公演も成功に終わり、千秋楽の余韻も冷めやらぬという頃に、彼女からこう言われました。
「ここの劇団員にならないかと誘われている。私もこの劇団でずっとやっていきたい」と。
それ自体はなんら悪いことではありませんし、彼女のキャリアを考えたら上出来だと思います。
また、彼女も真剣に考えた上での決断なのですから、それは尊重すべきですし、応援もします。
ただ、そのくらいの劇団の正劇団員になりながら、今までのようなフリータレントとしての活動を両立させることは困難でした。
専属契約を交わすような、事務所機能のある大手の劇団はともかく、通常ならばどこかの劇団に入ったからといって必ずマネージャー契約ができなくなるわけでも、その他の活動や事務所への所属ができなくなるわけでもありませんが、当時の彼女の状況ではそれは難しかったのです。
相談した末、マネージャー契約はそこで終了し、彼女は一人の劇団員として今後活動していくことになりました。
繰り返しますが、そのこと自体を「悪し」と言っているわけではありません。彼女は自分の人生について、自分の意思で選択したのです。
大きな劇団に所属するということ
しかし、感情抜きで業界の人間としてそれを考えた時、それが賢明な判断かと言われたら、そうは思いません。
まず、その劇団は東京で1000人単位の箱で自主開催をする規模の劇団です。大手事務所やメディアとの繋がりも強く、ゲストとして有名俳優をキャスティングし、オーディションには大手事務所からも売り出し中の俳優志望者や経験者が集まってきます。
さらに、劇団では集客の肝となる看板女優と、劇団の主催者兼舞台の制作、脚本を自分で担う主演俳優を中心に、中堅の劇団員と、知名度のあるゲスト出演者が脇を固めています。
その中で、彼女がどこまでやれるでしょうか。
非常に悪い言い方ですが、劇団にとっては、彼女は決して有望な役者ではなく、若くてモチベーションの高い、使い勝手が良い脇役兼スタッフとして重宝されているだけではないでしょうか。
舞台の一体感や高揚感
それでも、彼女がその劇団に入りたいと思った理由はわかります。
プロジョクトのためにチームを組んでから、本番当日までみんなで一つの目標に向かって同じ時間を過ごし、努力し、協力する。
時にぶつかり、時に励ましあい、最初は知らない者同士だったメンバーが、やがてひとつにまとまっていく。
その中で、自分自身のパフォーマンスが上がっていく実感、それがチーム全体のパフォーマンスに貢献する手応え。
その時に感じる一体感や高揚感は、誰しも理解できることだと思います。
学校の文化祭や、部活の団体競技などで似たような思いを経験した人も多いと思います。
彼女の場合、そのボルテージが最高潮に達したところで、今まで経験したことのないような大舞台で、スポットライトを、大勢の観客の視線を一身に浴びたわけです。
一緒に頑張ってきた仲間や、リスペクトする先輩役者と一緒に、同じ座組の一員として。
そりゃもう、もっとここにいたい、もっとこんな経験をしたい、と思うに決まってます。
舞台に立つ人というのは、多かれ少なかれこの高揚感に憑りつかれているんだと思います。
高揚感は長続きしない
けれども、その高揚感や一体感は決して長続きしません。
何事にも必ず終わりは来ます。本番が終わればチームは解散し、それぞれの日常に戻っていきます。
逆に言うと、その日常があるからこそ、舞台という非日常的な時間や空間に魅力を感じ、気分が高揚するわけです。
これは我々、観る側も同じでしょう。
彼女は、その劇団に参加した一体感、舞台に立った高揚感で「自分の居場所はここだ」「自分がやりたいことはこれだ」と思ったのでしょう。
その気持ち自体は嘘偽りではないでしょう。しかし、彼女は一時的な感情のたかぶりに身を委ねて、自分の人生の選択をしてしまいました。
それでも、主役になりたい
例え脇役やスタッフの一人としてであっても、その劇団に入りたい、その結果、自分のタレントとしての可能性の多くが失われることになってもかまわない、と彼女自身が納得しているのであれば、その選択に対して他人がとやかく言うことではありません。
その舞台に出る前の話ですが、彼女が通っていた声優スクールの主催者から「ドラマCDの主役をやらないか」と声をかけられたそうです。
よくよく話を聞いてみると、制作費の数十万円を払ったら彼女が主役のドラマCDを作るよ、という話でした。
台本はその主催者、他のキャストはスクールの生徒、出来たCDが一般流通に乗るはずもなく現物供与という、絵にかいたような芸能詐欺でした。
20歳で単身上京したばかりの女の子にそんなお金がポンと出せるわけがありませんが、若くて芸能志望の女の子ならいくらでも稼ぐ方法あるでしょ、なんならうちで紹介するよ、と言わんばかりだったのも余計に腹が立ちました。
当然、強く反対したのですが、その時に彼女が言った言葉が印象に残りました。
「それでも、自分が主役になれるなら、やってみたいという気持ちもある」
と。
(なお、その主催者は自主製作の映像制作をして映画監督という肩書で活動したり、当時の日本のトップアイトルグループの一軍メンバーを、レッスン生として受講に呼ぶなど、自分を大きく見せることには長けている方でしたが、後日、別のレッスン生に対する性的暴行で逮捕されました)
舞台に居ついてしまう怖さ
タレントとして、決してポテンシャルが高いとは言えない彼女が主役になるためにはどうしたらいいか、どんな場所に出ていけばいいのか、そんなことをいつも考え、これから一緒に頑張っていこう、と意気込んでいた僕にとっては、彼女が、主役になる未来よりも、その劇団を選んだことは正直に言ってショックでもありました。
大きな舞台に出れて、毎日張り切って輝いていた彼女を見ていたので、彼女がそこに魅せられている気持ちはよくわかります。
だからこそ余計に、決して長続きしないであろうそこを「自分の居場所」だと思ってしまったことが残念でした。
その劇団で、彼女が主演女優になることは恐らくないでしょう。
青春を捧げる夢だったプロの声優になれることも恐らくないでしょう。
でも、その時の高揚した彼女にはそのことは頭にありません。自分がこの劇団の一員になる、ということだけに思考が囚われて、視野が狭くなった状態で、人生の判断をしてしまいました。
経験を積むために舞台に出たはずが、経験の少なさが仇となって、その舞台に居ついてしまったのです。
今、そんな一体感や高揚感に浸っている人へ
今、もしそんな舞台の(まぁ舞台に限ったことではありませんが)、座組の一体感や高揚感をまさに感じている、という若い人がいたら、これだけは考えて欲しいです。
あなたのその気持ちは本物ですが、それはあくまで一時的なものです。
自分の今後の人生、今後の芸能活動をどうしていくか、という選択をする時は、一歩引いて、冷静な状態で考えてください。
「今しかできない」ということは実はそんなに多くありません。
また大きな舞台に立ちたい、自分もそこの一員になりたい、その場所でもっと評価されたい、自分を高めたい、というのは、ほとんどの場合「今じゃなくても、そこじゃなくてもできる」ことです。
若くてまだ経験が少ない今だからこそ「今しかできないこと」を選んで欲しいと思います。