海蔵庵板碑群
宮城県石巻市の北上川流域に、海蔵庵板碑群(かいぞうあんいたびぐん)と呼ばれる中世板碑群がある。
北上川が海に合流する河口はいくつかあり、三陸海岸の長面(石巻市尾崎)という地域にも河口がある。この河口の長面浦を見下ろす傾斜地に海蔵庵板碑群がある。
海蔵庵板碑群には、全国でもここでしか確認されていない、側面と上方を石板で囲まれた石堂風の板碑がある。
海蔵庵の近くに板碑群の入口がある。
ゆるやかな坂道を登ること、数分、板碑群が見えてくる。
海蔵庵板碑群は、確認されているもので弘安10(1287)年から文安4(1447)年までの159基の板碑からなる。
僧侶を含む有力者の一族が、主に追善供養を目的に造立したもので、板碑の前に火葬骨を埋納したものや古い板碑を整理した痕跡もあるという。発掘調査の結果、側面と上方を石板で囲まれた「石堂」の存在が9基あったと推定されている。
最も古い板碑は、「よりとも様」と呼ばれる「弘安10(1287)年」銘のもので、石堂の形式に整備されている。
この「よりとも様」の板碑は、三十五日忌の追善供養として造立されたもので、主尊の大日如来を梵字で表し、天蓋と蓮座で装飾されている。
「よりとも様」の両脇には、1基ずつ板碑が配置されており、この両脇の五大種子の板碑を「よりとも様」の主尊大日如来に奉斎して、菩提成就を表現したと考えられている。
また、この五大種子の板碑の彫り方(薬研彫)が、ほかの貞和4・5年銘の板碑の種子と似ているが、弘安10年の「よりとも様」の大日如来の種子の彫り方(皿彫)とは異なることから、露座の「よりとも様」の碑が、貞和年間(1345~50)に石堂になったと推定されている。
これらの石堂形式は、中世鎌倉の上級武士の墳墓形態である「やぐら」に類似しており、鎌倉の建長寺に在住した経験をもつ海蔵寺開山の洞叟仙公禅師との関連が指摘されている。
鎌倉文化がこの地に伝播した理由としては、『宮城県の歴史散歩』によると、2つの理由が述べられている。
1つ目は、この牡鹿・桃生郡内(現在の宮城県石巻市とその周辺地域)の浜が「遠島五十四浜」として鎌倉幕府執権の北条氏の直轄領とされたことである。
2つ目は、ともに北上川河口に開けた長面浦と石巻の中世的景観の類似性が挙げられている。
石巻は、当時牡鹿湊として栄え、海蔵寺(海蔵庵)と開山時期が重複すると考えられる日輪寺(多福院)には、海蔵庵と酷似した種子を使用した板碑があるという。また、長面浦は、海に突き出た岬に守られ、近世初頭に他国の舟が出入りした良港としての伝承が残っており、地形的にも石巻と類似していることが明らかになっている。
このことから、長面浦の北上川河口も、牡鹿湊と同様に板碑の見える湊として海から鎌倉文化を受容していたと推定されている。
他にも、海蔵庵参道入口にもたくさんの板碑群があった。
【所在地】宮城県石巻市尾崎字宮下
【駐車場】あり
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