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羽黒山荒澤寺正善院黄金堂~出羽三山立体曼荼羅~

出羽三山とは

出羽三山とは、山形県のほぼ中央部に位置する月山(がっさん)・羽黒山(はぐろさん)・湯殿山(ゆどのさん)の総称で、羽黒派修験道の霊場である。戦国期までは月山・羽黒山・葉山をいい、一時期は葉山の代わりに鳥海山(ちょうかいさん)が含まれていた時期もあったが、江戸期になると、葉山に代わり湯殿山が加わった。

飛鳥時代の天皇である崇峻(すしゅん)天皇の皇子である能除太子(蜂子皇子)が開山したとされる羽黒山では、平安後期には修験教団が成立していたと考えられており、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であったが、明治の神仏分離令以降は神山となり、羽黒山は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、月山は月読命(つくよみのみこと)、湯殿山は大山祇命(おおやまつみのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っている。

月山山頂の「御室」には、奥宮として月山神社本宮が置かれ、羽黒山山頂には里宮として、三山を合祀する出羽三山神社(正式には月山神社・出羽神社・湯殿山神社)のご本社、三神合祭殿が置かれている。

出羽三山神社三神合祭殿

江戸時代には、出羽三山を取り巻く山麗に7か所の登拝口が存在し、それぞれに三山の祭祀権をもつ別当寺があり、八方七口と称され、出羽三山参りにより大いに繁栄したという。

出羽三山信仰は、東日本一円に広く伝播しており、各地に建立された出羽三山碑などが当時の信仰を今に伝えているほか、現在も三山講が組織され、活発に活動している地域もある。

出羽三山碑

羽黒山荒澤寺正善院黄金堂

黄金堂こがねどうは、羽黒山荒澤寺正善院(こうたくじしょうぜんいん)(羽黒山修験本宗・大本山荒澤寺の本坊)の本堂で、現存する羽黒山内の建築物で最も古く、羽黒山上の三神合祭殿(かつての大金堂)と対をなすお堂で、国指定重要文化財である。また、33体の聖観世音菩薩を本尊としてお祀りしている

黄金堂

神亀5(728)年に聖武天皇の勅願により建立されたとも伝えられるが、建久4(1193)年に源頼朝が土肥実平に命じて建立したという説が現在最も有力視されているという。

源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の討伐に際し羽黒山に戦勝を祈願し、平定後に羽黒山の所領6万6千貫を安堵し、守護地頭不入の地と定めました。さらに報恩感謝のため、当時作事奉行職にあった土肥どひ実平さねひらに命じて山上の大金堂を修造のうえ、門前町の手向に小金堂を建立、三十三体の聖観世音菩薩像を配し、東国三十三ヶ国の総守護としたと伝えられています。

羽黒山荒澤寺正善院ホームページより

こうした伝承は、昭和39~41年に実施された黄金堂の解体大修理の際、鎌倉以前の古材が多く発見されていることからも裏付けられるそうだ。

明治以前、羽黒山上の御本社(現在の三神合祭殿)は「寂光寺大金堂(じゃっこうじだいこんどう)」と呼ばれ、それに対し、麓の黄金堂は「小金堂(しょうこんどう)」と呼ばれていた。文禄頃(1592~1596)から「こがねどう」と呼ばれるようになり、黄金色に映える三十三体の聖観世音菩薩のお姿から、いつしか「黄金堂」と表されるようになったという。

駐車場から黄金堂へ向かう。

仁王門

県指定文化財の仁王門に安置されている金剛力士像は1633年に康音(日光東照宮や比叡山延暦寺の造仏に関わった名工)という仏師が彫ったものである。

当時の名工の作によるものらしく、精巧で力強い姿である。また、写真手前に写りこんでいる鉄鍋は、「弁慶の粕鍋」と呼ばれ、弁慶が戦陣に臨む際に背負っていた鍋で、粕汁を煮て一息で平らげてしまったという伝説が残っている。

仁王門を過ぎると、左手に閻魔大王と書記官の石像がある。閻魔大王の石像は、元は羽黒山石段参道の継子坂を下ったところにあったといい、これは現世(羽黒山)からあの世(月山)へ向かう途中に閻魔大王の前を通るという形をとっているという。

また、この石像には、明治の神仏分離令の際の不思議な話が伝わっている。

神仏分離の際、宮司の西川(にしかわ)須賀雄(すがお)が石工に命じて、これを打ち壊そうとしましたが、誰もが怖がって手をかけようとはしませんでした。そこで西川は祝詞のりとを奏上し「閻魔の魂を抜いたから、もう大丈夫だ」と言いました。石工が恐る恐るタガネを当てると、その瞬間、閻魔さまがギラリと眼を光らせて 「イデッ」 と叫んだ。これにはさすがの西川宮司も肝をつぶして壊すのを止めさせました。石像の背中が少し欠けているのは、この時にタガネを当てた痕だと伝えられています。

羽黒山荒澤寺正善院ホームページより
閻魔大王

閻魔大王を過ぎると、於竹(おたけ)大日堂がある。於竹大日堂は、江戸時代「大日如来の化身」とされた実在の女性、お竹さんを祀るお堂で、1666年に建立された。ここは黄金堂内の出羽三山立体曼荼羅の最後にお参りするところで、祈るというよりは、自らのこれからの行いを宣誓する場所とのことだ。

於竹大日堂

黄金堂は国指定重要文化財に相応しい佇まいをしている。

参拝時、黄金堂の扉は開いており、扉の間から観音様のお姿が見えた。

黄金堂

出羽三山立体曼荼羅

堂内へ入る。拝観料は300円。

黄金堂は、正面の御本尊を参拝し、堂内回廊を時計回りに進むと「出羽三山立体曼荼羅」として、江戸期に盛行した出羽三山参りを追体験できるよう、羽黒山~湯殿山の参詣の流れに沿って仏像が配置されているそうだ。その数なんと約80体!ほとんどが室町~江戸時代の作である。

解説を聞きながら堂内に目をやる。

正面に大きな3体の座像と、30体の立像が並んでおり、この33体はいずれも観音様で、33体全ての観音さまを本尊として祀っているという。素人目には、鎌倉~室町期の作のように思えたが、藤原時代(平安後期)の作とする説があるようだ。いずれにしても、33体のみほとけが堂内に並ぶ様子は圧巻である。

視線を左右に移すと、金剛力士像がある。慶派の仏師・善慶により1695年に作られたもので、元々は羽黒山石段登り口にある仁王門(現随神門)に安置されていたそうだ。筋骨隆々、さすが慶派と思わずにはいられない力強さ。足の先までじっくり鑑賞する。

左手から回廊へ入る。五重塔の御本尊である羽黒三所大権現(聖観世音菩薩・妙見菩薩・軍荼利明王(紛失))、弁天堂(現在の厳島神社)の御本尊だった宇賀弁財天などを見ながら回廊を進んでいく。

ちょうど黄金堂御本尊の真後ろにあたる位置に、かつて山上の大金堂で祀られていた出羽三山大権現(聖観世音菩薩・大日如来・阿弥陀如来)が安置されている

出羽三山大権現は、羽黒山大権現(聖観世音菩薩)・湯殿山大権現(大日如来)・月山大権現(阿弥陀如来)の順に安置されている。

現在の神格では月山大神が中央にくるが、神仏分離令以前は、聖観世音菩薩様(羽黒山)のお導きにより阿弥陀如来様(月山)の浄土に至り、十三仏の年忌を過ぎ、三十三回忌の後、大日如来様(湯殿山)のもとより新たな魂として生まれ変わるとされていたため、湯殿山大権現が中央に配されているという。

出羽三山大権現はいずれも鎌倉~室町頃の作に思えた。長きに渡り信仰を集めてきたみほとけだと一目でわかるほど、荘厳な雰囲気をまとっていた。気づくと、自然と目をとじ、手を合わせ祈りを捧げていた。

余談であるが、山形県鶴岡市の善宝寺には、かつて月山山頂に月山大権現(阿弥陀如来)とともに祀られていた十三仏が安置されている

立体曼荼羅を参拝後、月山を遙拝する。

黄金堂から見る月山(中央奥に見える山)

それにしても、黄金堂の立体曼荼羅を見て、私は廃仏毀釈の壮絶さを肌で感じた。

廃仏毀釈とは、仏教の抑圧・排斥運動のことで、慶応4(1868)年3月の神仏分離令をきっかけに各地で神官・国学者らが中心となり仏寺・仏像などを破壊したため、明治8(1875)年に鎮静化するまでの間に全寺院の半数が廃寺になったといわれている。

修験道の聖地であった出羽三山においても廃仏毀釈が徹底的に行われ、山中に祀られていた仏像の多くが破壊され、石仏は首を折られ谷底に捨てられたと伝わる。

一方、廃仏毀釈に心を痛めた多くの人々が、仏像を土中に埋め、水中に沈め、または遠方に避難させ、廃仏の嵐が過ぎ去るまで必死で隠し、守り抜いた仏像も今に多く伝わっている。

黄金堂に祀られる仏像からは、一部が損壊していたり、損傷が激しい仏像もあったりと、廃仏毀釈による受難の痕跡も見て取ることができる。よくぞ守り抜いてくださったと、先人たちへ深い感謝と畏敬の念を抱いた。

御朱印をいただき、於竹大日堂へお参りし、黄金堂をあとにした。

御朱印

羽黒山荒澤寺正善院さんのホームページはこちら

【宗派】羽黒派修験本宗
【所在地】山形県鶴岡市羽黒町手向(とうげ)232
【駐車場】あり(仁王門横に3台程度)
【御朱印】あり

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