長谷寺(奥州三十三観音第24番札所)
長谷寺(ちょうこくじ)は、天平宝字6(762)年に創始されたといわれる宮城県登米市中田町にある天台寺門宗の古刹です。山号は遮那山(しゃなさん)。
寺伝によると、鎮守府将軍藤原氏(誰を指すのかは不明)がこの山に登り、周辺の展望に感動して山頂に笏を埋め、後に釈道上人が登って山頂を遮那山と命名し、加賀より白山権現を勧請して法誓寺を建立したことに始まるそうです。その後、坂上田村麻呂が大同2(807)年に大和国初瀬山長谷寺を勧請して初瀬山長谷観音院と号します。
奥州七観音の一つでもあり、往時には奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに日本三大長谷寺と並び称せられたといいます。平泉藤原氏や葛西氏の庇護を受け隆盛を誇るも、天正18(1590)年の豊臣秀吉による奥州仕置により葛西氏が滅亡し、葛西氏の庇護下にあった長谷寺は全山ことごとく焼き討ちされ、荒廃してしまいますが、江戸時代に復興され現在に至ります。
こちらが長谷寺の参道入口です。車は参道入口横に停めました。
石段を登ること数分、観音堂にでます。
観音堂は、七間(12.6m)四面のお堂で、文化10(1813)年に水越地区の住人である岩渕浅右衛門という人物がそれまであったお堂の改築を発願し、別当であった日光院了堂法印とともに諸国をめぐり勧請して三年がかりで落慶したものだといいます。
観音堂内に安置されている本尊十一面観音菩薩は、開山以来三代目のもので、像高216㎝、京都の仏師八幡行念の作です。最初の御本尊の胎内には坂上田村麻呂が奉納した黄金の十一面観音が納められていましたが、天正18(1590)年の戦火で焼失してしまったようです。
境内にある遮那桜は、源義経お手植えの桜と伝わります。
長谷寺境内には、石碑が大量にありました。
御朱印は、観音堂への参道途中にある長谷寺本堂に隣接する庫裏でいただきます。
【御詠歌】はるばると みなこしちより はせてらの くせのひくわんを たのむなりけり
【宗派】天台寺門宗
【本尊】十一面観音菩薩(長谷寺本尊…大聖不動明王)
【住所】宮城県登米市中田町浅水字長谷山288