"才能"の定義を変えてみる
COTENラジオからの繋がりで、みんなの才能研究所(みんラボ)を聞いてみる。
まだ2話聞いただけだけど、
みんラボに従って、
自分の中での"才能"の定義を変えてみようと思った。
なろう小説風に書けば、才能(チートスキル)なんてルビが振られるのではないか?
エゲツないチートスキルの数々が出る話を露骨にペタリ
彼らが使うCメモリは、異世界召喚時に与えられる才能とも解釈できる。
フィクションの中の才能は、それこそチートを冠するに相応しい優秀性を備える。
が、現実はそうではない。
"才能"とは、ついついやってしまう事。
であると言う。
努力とかは関係ないらしい。
しかも本人は自覚してなく、才能とは自動で起動してしまうので、自分では気付きにくいものなのだそうだ。
たかちんは、深井さんの才能を構造理解と要素分解だと言う。
よっしーさんの才能を世界観を作り出すことだと言う。
うっわ、なんかメッチャビジネスに役立ちそうと思ったが同じ才能や資質であっても、相手によって表現は変えるという。
そして才能をメッチャ研究したから、その才能を活かす提案(メッチャ難しいらしい)もできるようになったと言う。
才能がない、と自虐的につぶやくのは簡単だ。
でも、ついついやってしまう事なら人間誰しもあると思う。
それはあまり仕事の役に立ったりはしていない場合が多い。
ただそれを分析したり、仕事に活かせないかを考えたことはない。
ついついやってしまう事は、努力してブラッシュアップしたりはしていない。
才能が活かせる環境にいくのかは自分自身の決断なわけだ。
自分の資質が見つかるかも?とみんラボをフォローし、今まで役に立たなかった、才能=努力せずに成果が出せる優秀なスキルという定義なんか、変えてしまっていいのだろう。
今日の捻くれポイント
エグゾドライブも実のところ、みんラボのかませ犬的な紹介ではなく、チーレム小説へのアンチテーゼ。
大衆的ななろう小説とは真逆の、チートスキルの裏を書いたり、組み合わせたりと一筋縄では行かないカタルシス満載の、ある意味たかちん的な発想の小説だと思ってる点。