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32年将棋人生のまとめ
こんにちは!竹下です。
思えば長い将棋人生でした。
竹下貴重が生まれたのは14歳の奨励会入会時でした。
・・? ですよね。笑
将棋をはじめて色々あって、いろいろあってTVで特集などしていただいて。
そして、将棋から距離を置きます。
大変さもありましたが、楽しさもいっぱいでした。楽しかった。
これを機に将棋人生を振り返ります。
将棋人生 竹下貴重 ステージ0
歴:5歳から14歳
名前なんて一生を掛けて価値を高めて遊ぶもの。最近はこんなことを思っています。
光が丘病院教室
石川県野々市市に沢田貴重は生まれました。最初に通った将棋教室は光が丘病院?のおじいちゃん先生の元で習っていました。そこは教室の終わりにお饅頭がもらえる場所で、生徒もいっぱいいました。先生は八王子将棋教室で羽生くんに将棋を教えたこともあるよーと言っていた方で、当時の僕には「?」です。
近所の幼馴染のお兄ちゃんと切磋琢磨をして、教室の中で最強になって。でも他の子とも将棋で遊んでいたのを覚えています。強くても強さにうぬぼれることはなかったかな。多分。やがて、先生が他の教室を紹介してくれました。
泉が丘公民館
遊戯王が流行っていました。
来ている子どもは、将棋より遊戯王をしていたかな。笑
そこは教室ではなく、大人が集まって将棋を指すサークルでした。最初は強いなーと思ったけど、やがて勝つようになりました。そこで石川さんという方に次の場所を紹介してもらいました。
野々市公民館
毎週人が集まってリーグ戦をやっているところです。石川県でも最大の人数がいたような気がします。毎週火曜日は子どもも参加OKで、木曜日は大人だけの日。でも、君は木曜日も来ていいよーと言っていただきました。
記憶にあるのは、「師匠!」とおじさまに呼ばれていたことです。なんだか楽しかった記憶があります。そこの方に将棋の本を借りました。一番記憶に残っているのは「終盤の逆転術」シリーズです。僕の今の棋風にもつながっています。わけのわからない終盤の逆転は、当時の野々市公民館の所以で構築されたのかもしれません。小学三年生まで通いました。
当時は石川県の低学年で負けなし、倉敷王将で5位になって野々市市文化奨励賞をいただきました。人生最大の褒章が7歳です。人生のピークが7歳。笑
全国大会の倉敷王将は斎藤くんと里見ちゃんに負けて5位。輪ゴムで遊びながら将棋を指していて、めっちゃ怒られた記憶があります。まあ悪童ですね。
これで石川県生活はお終いです。ここで静岡に引っ越します。
高木将棋教室
静岡県の将棋教室です。当時は生徒がいっぱいいて、後の経歴で見れば強い人が多かった。3年生で引っ越しましたが、たぶん将棋が壊れました。静岡県のレベルが高かったのかな、あまり将棋の記憶もありません。教室は楽しかった記憶があります。
小学生の3,4,5,6は将棋の局面の記憶がまったくありません。石川弁が静岡ではきつかった。学校になじめず。人生が大変だった記憶です。
中学生の時の文部科学大臣杯は二回出て全勝。
中学二年生で赤旗名人戦で静岡県代表、中学生名人の成田くんと下平さんに負けて予選落ち。池袋の電柱の裏で大泣き。そのときに将棋を教えてくれた細川さんにはとても感謝しています。
中学生選抜は一年生の時に代表で予選落ち。二年生で県大会で負けて絶望しました。自分の頭に爪を立てていて、負けた次の対局は流血してたそうです。今となっては相手に申し訳ないが、当時は将棋だけが人生でした。
奨励会受験歴:
小6で奨励会受験。3連敗落ち。
中1で奨励会受験。2勝4敗落ち。
中2で奨励会受験。4勝2敗受かり。
そうして奨励会に入ります。
奨励会から竹下の苗字を使います。
将棋人生 竹下貴重 ステージ1
歴:14歳から21歳
入会時は静岡から東京に通っていました。
学校は休んでもいいや、将棋をしに行きたいと。
中学校を卒業して東京に上京して、一人暮らしをはじめます。
上京後の一年間はフリーターです。高校にも入りませんでした。そんな奨励会でやっていたこと。
奨励会
将棋しかできない、将棋以外はできない。頭も悪い。将棋がダメなら死ぬしかない。なぜかそんな風に思っていました。
とにかく将棋の強さのため、生きるために必死でした。毎日将棋連盟に通って、塾生や記録係をする毎日。用事がなくても朝に将棋会館に行って、他の人の記録係を代わりにやったり(強奪)してみんなに存在を覚えていただきました。桂の部屋に来た棋士の全員に「将棋を教えてください」と声を掛けました。将棋をやめたら命がないので、前に進むしかないんです。声をかけにくさもありましたが、やるしかない。優しい棋士の先生方は将棋を教えてくれました。名前を挙げたらキリがありません。
棋譜も毎日並べました。表に出ない棋譜も、年間の棋譜はすべて並べました。詰むや詰まざるやもすべて頭の中で解きました。ネット将棋もPCにかじりつくようにやりこみました。命がけです。
しかし、初段で奨励会をやめました。
AIが強くなりました。AIに勝てない。世界最強になれない?それで何かがなくなりました。強さを求めても将棋で最強にはなれないのです。でも、自分が楽しかった将棋教室は続けたいなあ。
将棋人生 竹下貴重 ステージ2
歴:21歳から27歳 東京時代
奨励会をやめて普通の大学生です。普通かな、わからないけど。
心理学の論文は異様な数を読みました。とにかく勉強をしていました。将棋以外できない?そんなの勘違いです。努力すればなんでもできるはず。
今までできなかったことを目一杯やりました。運動して勉強してお酒を飲んで。さて将棋の話。
大学時代
全国の将棋の人をつなげて全国の大学に遊びに行って。北大、東北大、金大、立命館、京大。各地へ何回行ったんだろう。
いまの同世代は「飲み会を開催している人」という印象でしょう。各地に遊びに行くために売名行為をしようと思いました。学生王将戦の全国大会出場です。
奨励会退会の翌日に参加して、あららという間に優勝。全国大会は優勝のつもりが準決勝で負けて三位。三位決定戦は持ち時間75分で消費時間5分くらいの狂ってると言われる将棋を指していました。余談ですが、準決勝の将棋は敗勢から最善を指し続けて、ソフトに掛けても玉が寄らない異様な将棋を指していたそうです。
それで売名はOK、そこで仲良くなった友達に会いに行って、その部員と仲良くなって、全国大会の打ち上げを主催で開催して、さらに仲良くなって。
さて、その頃から「大会で勝てば将棋が強い」という考え方をしなくなりました。自分は強さは置いといて、賞金を取るために大会に参加しよう。強さはともかく賞金目当てだ。「強いね」と褒められると嬉しいのですが、まあ強いですよ~という風に言ったりしています。
最初に出た一般大会はマグロ名人戦です。
私情で沢田貴重で参加しました。昔から知っている人に「生きているよー」と伝えたかったのです。当時は研修会副幹事をやっていましたので、大会の決勝戦は研修生が取り囲んで応援してくれていました。相手の方はやりにくかったでしょう。戦型は34金型角交換振り飛車という戦法でした。
一回は全国大会を優勝したかったので大学5年生に進学。支部名人戦は東西決戦で負けたが、平成最強戦で優勝。全国優勝できた。まあ、これくらいでいいかなーとやっていました。
さて、AIのおかげで奨励会をやめましたが、AIを使った研究をしていました。主に、当時三段の方との研究をしていて、この世にないくらいの戦法や作戦を開発していました。当時の発見した手順が令和の現代でようやく指されたりして、それを見るたびに懐かしく思います。角換わりの居玉45桂パンチはどこの大学よりも早く明治大学の部員が採用してくれていました。先駆け感が楽しかった。
社会人時代 東京
そうこうして就職。
その後は特筆すべき点はありませんが、令和最強を二回目優勝したりしていました。
いろんな方と飲みました。世代を越えて遊んでもらって楽しかった。朝日杯はなぜか負けて、大会はそこそこ。大会の飲み会が楽しくて楽しくて。
そうして大分へ行きます。
将棋人生 竹下貴重 ステージ3
2ndライフのはじまりです。
のどか。ゆったりとした場所です。
指導
まずは日出町で将棋教室をはじめました。来てくれた生徒の全員に感謝です。次に別府で教室を開きました。そうしていると、大分大学で講義のお話をいただいたり、別府市教育委員会からお話をいただいたり、名人戦の外国人向け教室を行ったり。いろいろなお話をいただきました。
100人くらいに教えられたかな。
子どもに教えるのが好きな私にとって、それらの経験はとても幸せなものでした。
本も出版しまして指導の現場では役立っています。資料を新しく作る必要がないので、教科書として使い勝手が良いものを作れました。また、アマレンの連載もさせていただいて、将棋指導全般に貢献できたかなと思っています。
将棋大会
将棋の大分県と言えばレジェンドがいます。
かなり指しましたね。大分県の方は、大会のたびに将棋を楽しみにしてくださっていました。全国レベルが大分県大会で戦っている。テンションがあがりますよね。笑
大会はそこそこ出ましたが、全国ベスト8止まりでした。んー、毎回優勝するものだと思っていましたが、案外負けるものですね。
朝日杯はプロ相手にようやく勝てましたが、まあ結果だけ見るとそんな感じか。実は僕の将棋には致命的な弱点がありまして、そこを直す気がないので安定感は出ないですね。
将棋の練習も奨励会と比べてしていない自覚もあるので、まあそんなものですか。強豪の他の方の練習量を聞くとびっくりします。
そして
NHK大分で人生をまとめていただきました。
あまりに嬉しい。光栄でした。
まとめ
5歳ではじめた趣味がここまで楽しいものになるとは幸せです。
自分が納得できる強さを身につけられて、好きな指導をして、社会的な幸せまでいただいて。
大会で歓迎してくださった方々もありがとうございました。
鹿児島清明戦では、「清明チャレンジ」という僕に挑戦をする企画をやってくださいました。竜虎戦は打ち上げに大人数の方が来てくれて。
昔は松尾芭蕉のように、どこに行っても歓迎してもらえる人物になりたいと思っていました。今は将棋なら歓迎してもらえる。なんと光栄なことでしょう。
さて、人生はそうも言っていられなくなりました。自分の興味が将棋だけでは収まらなくなってきて、もっといろいろとやりたくなりました。将棋は少し離れます。
なんて言いながら、大会にちょくちょく出るかもしれませんが。笑
人生の最大の贅沢は人間関係における贅沢である。私の好きな言葉です。かなりの贅沢をしました。
またどこかで会いましょう!
皆さまありがとうございました!!!