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なぜ今『リア王』か~【稽古場レポート|オペラシアターこんにゃく座】

 2024年、私の観測している範囲では4つもの『リア王』が各地で上演される。そんな中、吉祥寺シアターでもオペラシアターこんにゃく座が同作を上演する。シェイクスピア悲劇の最高峰とも言われる作品ではあるが、なぜ今こんなにもブームになっているのか。先日私はこんにゃく座の稽古場にお邪魔した。その中で『リア王』が求められる理由の一端を掴んだような気がする。

 この日は楽士が揃った初めての稽古だった。オペラというとオーケストラがいる様子を想像するかもしれないが、こんにゃく座のオペラはコンパクトだ。今回はサクソフォン、コントラバス、パーカッション、ピアノの編成で上演する。今日はこんにゃく座のファンクラブの見学日でもあり、ファンの方も数人いらっしゃった。
 音楽のあるシーンをメインに、楽器同士やセリフとのタイミングを調整する。プロローグは雷鳴が轟くように大胆なパーカッションから始まった。既に暗雲たちこめるような禍々しさがあり、『リア王』の壮大な物語の幕開けを感じる。

□『リア王』あらすじ
老王リアは、3人の娘に自分に対する愛の大きさを試し、最も愛の深い者に最も豊かな領土を譲ろうとする。おもねった言葉で父への愛を語ることのできない末娘コーディリアに、リアは激怒し、何も与えず追放する。そしてそれを諫める忠臣ケントも追放してしまう。リアは残るふたりの娘に領土を譲り、ふたりを頼るが、長女にも次女にも邪険に扱われ、裏切られる。リアを支えるのは、変装し奉公を願い出たケントだけ。後悔と苦しみにより気がふれたようになり、リアは道化とともに荒野をさまよう。
リアの重臣・グロスターにはふたりの息子がいる。庶子であるエドマンドは、嫡子・エドガーと父を騙し、兄を陥れる。兄エドガーは領外へ逃れ、気のふれた乞食に変装し、疑いを晴らす機会をうかがう。
悲観と狂乱の果て、リア王は……。 そして欲望と嫉妬と策略が渦巻くなか、リアを取りまく人々は……。

 タイトルロールであるリアを演じるのは、座歴44年のベテラン・大石哲史だ。リアは娘に自分への愛を語らせる。父への愛をつらつらと歌い上げる姉たちに対して、末娘のコーディリア(A組・小林ゆず子、B組:入江茉奈)は絹のような声で素直な言葉を紡ぐ。「言うことは何もない」と語るコーディリアにリアは激怒する。リアは老いて正常な判断が出来なくなっている。        『リア王』は不条理を描いているとも言われているが、リア自身が不条理の塊のようだ。そんなリアに対するコーディリアの健気さや忠臣ケント(佐藤敏之)の無償の献身は理解しがたい。誰にも共感できず、それぞれの人物が盲目的で愚かだ。そして、愚かといえば、シェイクスピア作品でおなじみの道化である。今回、道化は金村慎太郎と沖まどかの二人で演じられる。荒涼とした世界の中、おどけた可愛らしい道化がお互いの言葉を継ぎながら言葉で遊ぶ。ヘビーな作品なだけに、二人の存在が救いだ。彼らは頓珍漢なようで芯を突いた発言で、リアの愚かさを映し出す。

 あくまで私見だが、私たちは自らが正気だと思い込んでいるだけで、本当は狂気の中にいるのかもしれないと思う。コロナ禍という厄災を経て、「普通」という社会の基準になるような価値観は揺らいだ。もはや正気な者は誰もいない、そのことが明白になった。この時代だからこそ、愚かな人物ばかりの『リア王』が求められるのではないか。

 シェイクスピア戯曲の特色の一つにはことば遊びがある。今回上演するこんにゃく座は、言葉の面白さや可能性を引き出しつつ、日本語オペラを普及させてきた劇団だ。こんにゃく座はシェイクスピア作品の魅力を活かしつつ、この重厚な物語の扉を私たちに開いてくれるだろう。

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