自分を知る映画:A Hidden Life
年明けにこの映画を観れた。勧めてくれた主人のおかげだ。観てきたばかりのところで、早速書いてみる。ここでレビューをするつもりはないのだが、今年二日目にして既に「2020年のベストムービー」と言ってしまいたい良質な仕上がり。
この映像に描写されているひかりがとても気になった。3時間上映も長く感じさせない。事実に基づいたヘビーな内容。なのにケムリのごとくライトな展開。映画館からの帰り道、主人と互いに感想を述べながら、終始焦点を定め見守るような光が大切なエッセンスであると互いに同意。そうなのだ、壮大な山の風景をバックに圧倒的なひかりを映像のなかに感じる。
そしてこのノートではその「ひかりの中にみる倫理」について探ってみたい。ダンスフロアで起こることの延長として捉えている為、実際の映画自体を知りたいヒト向けの内容ではない。
私生活で誘惑や困惑に囚われそうになった場面がしばしばあった。間違った選択も色々としてきた。そこから学んだ後、幸いにも最終的には光をみつめ続けられてきた。闇の深さを知るほどに光の明るさを吸収しようとした。そしてよりいっそう成長できるようにと願った。そんなイイ加減な自分が、この主人公ほどの信念を新年の抱負として果たして貫けるかどうかは正直、疑問。でも再度トライしたくなる個人的にとても惹かれる続けるテーマ『光合成』。
私の大好きなホラー映画である『エクソシスト』と同様の「守るべく規範」が、今回の映画の根底にも流れていた。
明らかに間違った方に物事が向かっている。にもかかわらず、自分が信じている公正さが、愕然とするほどあからさまにある日を境にいっさい通用しなくなる。そんな状況に直面したら、あなたは一体どんな行動に出るだろうか?
全ての発端は、私がダンスフロアで見知らぬ人から声をかけられる時のこと。それは、この5年間一貫して言われ続けてきた「アイ・ラブ・ユア・エネジー。」にある。どちらかといえば、そんな多くの人に好かれるアイドルキャラでない自覚はある。なんせオバンだし、日本での『規格外』は確定している。
その上、フロアで踊っている最中に声をかけられるのを特にアリガタイと思っていないイヤな奴なのがワタシだ。決して話したワケでも無く、ただ単に踊っているだけなのに、そう言われることが最初は理解不可能だった。みんな微笑ましい顔でそう言ってくれるのが不思議でならなかった。話す人がいないのかなくらいにしかとらえていなかった。過去の仕事や学校でもそんなお褒めの言葉を頂いた覚えがまったくなかった。
そうして徐々に、人や自然やものが発するひかりやエネルギーに興味は持つようになった。でもそれ以上に感じることばかりに徹した。音楽が私の薬だったから。ライブへ行った経験がある人で音楽や歌手、または演奏者達から放たれるエネルギーの体感経験があると理解してもらいやすい、この癒し。
今の自分に一番足りていないのは『アバンダンス ー abundance 』だと気づかされた。諦めたり手放す意味に近い。私の解釈だと「振り返らない」行為にも似ている。自由な精神になるひとつの手段だとも思う。「無償の愛」を実際の行動でひとに示すには、する側もされる側も自らに満たされ、在るモノにまず感謝できていることが大前提。どんな最悪でも最高でも全てを受け入れる覚悟が必要な状態。
個人が誰かの気持ちや国や世界を変えたりしないと示す厳しいストーリー。同時に実際の正義や平和とは、歴史上の登場人物だけがクリエイトしたものではないことも教えてくれる。人間の様々なよろい(人種、性別、宗教など)とも無関係に「本物の輝き」を放ち、最期まで悪に屈しない美しい姿勢を裏付けていた。
本人や家族がいかにやりきれない苦悩、切ない想いとの葛藤、決心と不安の狭間で生き抜いていたか。映し出された曇り空の切れ間に、または遠くから差し込む太陽光線や木漏れ日の儚さに、あるいは優しく揺れたカーテンの隙間からにわかに明るくなった部屋から、心の動きを悲しながらも感じられた。
戦争の絶えない現代に、この「潔白な生き様」を世に伝えることで、その人の死が報われる日のだろうか。あまりの純粋さに『このヒト、痛い』と思った人達が、当時でも主人公のまわりに実際に存在していたように、今ならそう簡単に一言で片付けられてしまうのがオチ、、、
いや、そうではない。
簡単なハズだったことほど難しくするのが人間の常。であるからこそ、じぶんの周りでいま争っている人の荒波の渦中にフト想う。何度間違っても、それに気づいた時点で、軌道修正を繰り返したあの日からこれまで通り、他人に影響されること無く、私自身が真実を探し求め続ければいいだけの話。
この映画と出逢え、『真実』の追求に立ち戻れることができた。