1956~1961年に実在した「中日なのに『広島』」という名の投手・広島衛(尚保)という存在
権藤博の登板を調べ始めると、1961年当時のプロ野球における投手起用に驚かされるわけだが、ほかにも新鮮な情報は数しれず。すべてが興味深い。
それだけ、この時代のことについて、これまで本腰を入れて勉強していなかったということが露呈され、もっと頑張らなくてはいけないと自覚させられるのだが……。
まあ、それはいいとして、そうした発見は中日ドラゴンズのピッチングスタッフにおいてもあった。
当時、権藤博の僚友として、後にタレントとしても一世風靡した板東英二が主力にいたことくらいは当然知っていたが、頭が混乱したのは広島衛(1957年までは尚保)という名の投手がいたことだ。
当時の新聞記事における選手名表記にはフルネームはほとんどない。そのため、広島衛は“広島”と表記される。
中日の投手なのに、名字が広島 ──。
いわゆる、「名字が内野(ウチノ)なのに守っているのは外野」という現象である。
実際に記事を確認したわけではないが、「先発の広島が好投。広島打線を5回まで無失点に抑えた……」なんて書かれ方があってもなんら不思議はなく、紛らわしいことこのうえない。
実際、ボックススコアにも例外なくそう記されているから、最初のうちは広島投手陣の合計スコアと見間違えてしまい、何度も誤植と疑った。
「今日、広島戦じゃないのに、なんでこんなところに広島投手陣の合計スコアがあるんだ!?」
となったり、逆にカープ戦のときには、
「中日投手陣のボックススコアがない!」
と、しばらくパニクったときすらあった。
この広島投手について、一応、Wikipediaにはわずかながら情報が記載されていた。一応、以下にリンクを貼っておくが、権藤が中日に入団する前年の1960年には主力級の活躍で15勝を挙げている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B0%9A%E4%BF%9D
1961年もシーズン序盤はそれなりに投げていて、スコア上はちょくちょく見かけていた。
なにしろ、当時の1軍ピッチンススタッフは5~6名で日々の公式戦を賄っていたのだから。。。
権藤博、板東英二のほかに、この年の13勝を飛躍のきっかけとして後年まで中日、ヤクルトで活躍した河村保彦の3人が、基本的に先発と先発が崩れたときでも勝ちを拾う継投に出たときの2番手、3番手要員となる、いわゆる「主力級」であり、、、
他には、この年阪神から移籍してきた左腕の西尾慈高、そして、この広島くらいしか常時登板記録に残っている者はいないという印象だった。
あとは、1956~57年と2年連続で20勝投手になったこともある中山俊丈、松山商業出身の児玉泰、中日時代よりその後の阪神での活躍のほうが目立つ石川緑などは、特定の期間のみ1軍~2軍を入れ替わるようにして登板していたようである。
また、この年南海から移籍してきて、翌1962年に大活躍する柿本実は、どうやら、この1961年の後半から近藤貞雄の指導により右横手投げに転じてブレイクするらしく、私がこれまで調べた開幕~8月一杯までの記録には、まだ一度も登場していない。
ひょっとしたら、柿本の台頭とともに、広島が2軍でくすぶるのだろうか?
権藤博の登板というより、権藤博の登板間隔を皮切りにして、昭和30年代プロ野球の投手ローテーションを調べようという壮大な本プロジェクトだが、こうした周辺で活躍している選手にもついつい目が行ってしまう。
寄り道三昧で、調査そのものはなかなか先に進みそうにない。
困ったものだが、なぜか心の奥底ではニヤニヤしており、「こういった寄り道ネタは大好き。大変喜ばしい」とすら思ったりしている(笑)。