「仏遺教経」を読む (9)
【仏の道:遠望・近見】 (131)
「仏遺教経」を読む (9)
Ⅲ 成就出世間大人功徳分八
三 遠離の功徳
汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲せば
当に憒閙を離れて独処に閑居すべし、
静処の人は、帝釈諸天の共に敬重する所なり、
是故に当に己衆他衆を捨てて、
空閑に独処して滅苦の本を思うべし、
若し衆を楽う者は、則ち衆悩を受く、
譬えば大樹の衆鳥之に集れば則ち枯折の患いあるが如し、
世間の縛著は衆苦に沒す、
譬えば老象の泥に溺れて自ら出づること能わざるが如し、
是れを遠離と名づく。
「比丘達よ、もし寂静にして無為なる安楽を求めるならば、正に喧躁を離れて人気の無い閑静な地に住まうが良い。静寂な地を好んで道を修める人は、帝釈天や諸々の神々が篤く敬うところである。このことから、家族や友人など様々な人々との関わり交わりを捨て、ひっそりとして静かな地に独り住まい、苦の根源を滅することを願うが良い」
「もし人々との交わりを喜ぶようであれば、様々な悩みに苛まれるであろう。譬えば大きな樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする煩いがあるようなものである」
「世間への束縛・執着は、諸々の苦悩に沈ませるものである。譬えば、老いた象が泥沼にはまって溺れ、自分で出ることが出来なくなるようなものである。これを遠離と名づけるのである」
【語義の吟味と考察】
「寂静無為の安楽を求めて憒閙を離れて独処に閑居」
正に33年前、還暦を前にして、慣れ親しんだ大都会生活にピリオドを打ち、岡山のど真ん中、中国山脈の過疎の台地に”終の住処”を求めた私の心境そのものである。当時は、それこそ「何故?」「どんな心境の変化か?」「いずれまた帰ってくる」等ゞ、親戚、友人の全てが首を傾げたものであった。
だが、正解だったと思う。この岡山·吉備高原に来て、我々、老夫婦は、それまでのあらゆる束縛·執着を捨てて、毎日、”寂静無為の安楽”を楽しみ、平安な生活を送っている。
”衆を楽う”ことに勤しんだ都会生活にあった、あの”衆悩”は全て消え、誠に釈尊の仰る通り、「遠離の功徳」を実感する。有難いことだ。
四 精進の功徳
汝等比丘、若し勤めて精進すれば、
則ち事として難き者なし、
是故に汝等当に勤めて精進すべし、
譬えば少水の常に流れて則ち能く石を穿つが如し
若し行者の心しばしば懈廃すれば譬えば
火を鑚るに未だ熱からずして而も息めば
火を得んと欲すと雖も火を得べきこと難きが如し、
是れを精進と名く。
「比丘達よ、もし勤め励んで精進したならば、事として成就出来ないことはない。このことから、修行者達よ、まさに勤め励んで精進せよ。譬えば少量の水であっても常に流れ続ければ、石に穴を穿つようなものである」
「もし行者の心が度々、なまけて怠ったならば、それは喩えれば、火を摩擦熱によって起こそうとしているのに途中で止め、火を起こそうとしているのに火を得ることが出来なくなるようなものである。これを精進と名づけるのである」
【語義の吟味と考察】
私はかつて出家・修行を志したことはない。だから”戒”に従い「勤め精進する」ような経験は全くない。だが、馬齢を重ねて卒寿を迎える頃になって仏道に強い関心を抱き始め、毎日、坐禅を組んでいる。見えざる御手に導かれて”菩提心”が芽生え始めたような気がする。
その私に釈尊は、励ましてくださっている。「勤め励んで精進せよ。譬えば少量の水であっても常に流れ続ければ、石に穴を穿つようなものである」と。また、同時に「なまけて怠るのは、火を摩擦熱によって起こそうとしているのに途中で止め火を得られない」ようなもの。それゆえ日々、精進につとめよ、と説諭されている。
修行者と共に生きる”精進”を忘れてはなるまい。
五 不忘念の功徳
汝等比丘、善知識を求め善護助を求むることは
不忘念に如くは無し、若し不忘念ある者は、
諸の煩悩の賊則ち入ること能わず、
是の故に汝等常に当に念を攝めて心に在くべし、
若し念を失する者は則ち諸の功徳を失す、
若し念力堅強なれば、
五欲の賊の中に入ると雖為めに害せられず、
譬えば鎧を著て陣に入れば則ち畏るる所無きが如し、
是れを不忘念と名く。
「比丘達よ。善知識を求め、善護助を求めることも大切であるが、不妄念ほどではない。もし不忘念があれば、諸々の煩悩の賊が(その心に)侵入することは出来ない。このことから、修行者達よ、常に集中して心を静かにせよ」
「もし念を失したならば、諸々の功徳を失うであろう。もし念の力が強固であれば、五欲という賊に侵入されたとしても、これに害されることはない。譬えば、鎧をつけて戦場に赴いたならば、畏れることが無いようなものである。これを不忘念と名づけるのである」
【語義の吟味と考察】
「不忘念」については、先に「法句経」第24章で学んだ。
欲望の温床は放逸である。放逸に行動する人の欲望は、常に増大し、生存から次の生存へと彷徨う。そして強い欲望に征服された人には憂いが増大する。この世に置いて卑しい欲望を征服する人からは憂いが脱落する。欲望の根を掘り、その潜在力を断つべし。さもなくば苦は再び現れる。
快楽に向かって流れる欲望をもった人は、奔流に流される。欲望の流れは、至るところに流れ、蔓が茂る。智慧によって、この根を断て。喜びは過ぎやすく、執着が強い。だから快楽を求める人は、生と死とを受ける。欲望に満たされた人は、駆け巡り、束縛と執着とに囚われて、繰り返し苦を受ける。それなのに欲望に満たされた人は駆け回る。修行者は、この欲望を除け。
欲林を出ても欲林に心を傾ける者は、束縛より脱してもまた束縛へと走る。賢者は、鉄や、木や、草の縄を堅牢とは言わない。宝石や、装身具や、子・妻への恋着こそ熱烈で、これを堅牢と言う。これを断ち切って恋着のない人は、愛欲の快楽を捨て、遍歴修行する。
貪欲にとらわれたものは、その流れに従って行く。賢者は、これを断ち切り、恋着なく、一切の苦を捨てる。過去と未来と現在を離れれば、生存の彼岸に達する。心が一切から解放されたならば、再び生と死とを受けない。疑惑・貪欲のある人の欲望は増大するばかりで、その束縛を固くする。
疑惑の消失を喜び、常に思念を凝らす人は、束縛を断ち切る。完成に達し、怖れなく、欲望を離れ、汚れなく、生存の矢を断ち切った。これが”最後の身体”である。2度と再び輪廻することはない。
欲望・執念がなく、聖典の語義に通暁し、文字の結合と順序とを知る人は、”最後の身体”(輪廻がない)の人であり、大智者、大成者と呼ばれる。
誠に不忘念は五欲の賊が忍び込んでもそれに害されることがない強固な砦である。