「仏遺教経」を読む (2)

【仏の道:遠望・近見】 (124)
「仏遺教経」を読む (2)


            II 修習世間功徳分。
             初、邪業の誡め

  「汝等比丘。我が滅後に於いて、
  当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。
  闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。
  当に知るべし、此れ則ち是れ汝が大師なり。
  若し我世に住するとも此に異なること無けん。


 「比丘達よ、私が入滅した後には波羅提木叉を最も尊いものとして大切にし最大の敬意を払わねければならない。それは暗闇の中で光明に出会うようなもの、貧しい人が財宝を得るようなものである。まさに知らねばならぬ。波羅提木叉こそ修行者達の大師であることを。もし、私が、今、入滅せず、久く命を留めたとしても波羅提木叉に説いたことに異なること(をこれ以上、説くこと)はない」

  浄戒を持つ者は、販売貿易し、田宅を安置し、
  人民奴婢畜生を畜養することを得ざれ。
  一切の種殖及び諸の財宝、皆当に遠離すること
  火坑を避くるが如くすべし。
  草木を斬伐し、土を墾し、地を掘り、湯薬を合和し、
  吉凶を占相し、星宿を仰観し、盈虚を推歩し、
  暦数算計することを得ざれ。皆応ぜざる所なり。
 

 「浄戒を受けた者は、販売・貿易など商売に関わってはならない。田畑や家などを所有し、使用人や奴隷、家畜を養うなどしてはならない。全ての農耕や様々な財宝など、火の燃えさかる穴を避けるように疎い離れるべきである。
 草木を伐採し、土を耕し、地面を掘るなどしてはならない。薬を調合し、吉兆の占いを行い、星宿を見、月の満ち欠けを計るなどする占星術を行なってはならない。それらは皆、すべて僧侶としてふさわしくない行いである」

  身を節し、時に食して、清浄にして自活せよ。
  世事に参預し、使命を通致し、呪術し仙薬し、
  好みを貴人に結び、親厚媟慢することを得ざれ。
  皆作に応ぜず。 当に自ら端心正念にして度を求むべし。
  瑕疵を苞蔵し、異を顕し、衆を惑わすことを得ざれ。

 「身を慎み、午前中にだけ食事をして、(律の規定に背かず)清浄に自活せよ。世俗の事柄に関わったり、俗人のための使いとなったり、呪術をなしたり、仙薬を作ったり、高貴な人々と深く交際して馴れ合ったりしてはならない。これらの行いは全て出家僧侶がなすべきことではない。自ら心を奮い立たせて常に気をつけ、ただ涅槃を求めよ。罪禍を包み隠して悪行・非法を行うなど比丘達の集いを惑わすことがないように」

  四供養に於いて量を知り足ることを知るべし。
  趣かに供事を得て畜積すべからず。
  此れ則ち略して持戒之相を説く。
  戒は是れ正順解脱之本なり。故に波羅提木叉と名づく。
  此の戒に依因すれば、諸禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。
  是の故に比丘。当に浄戒を持って毀犯せしむること勿れ。

 「(飲食・袈裟衣、臥具、薬)の四事供養については、量を知り、足りることを知って、わずかに供養を受け、それを蓄えてはならない。これらはすなわち、要略した(出家僧侶としての)持戒の相である」
 「戒とは正順解脱の根本である。故に波羅提木叉と名付けたのである。この戒に従うことによってこそ様々な禅定の境地、および苦しみを滅し去る智慧を獲得することが出来る。このことから比丘たちよ。浄戒を持ってこれを犯すようなことがあってはならない」


  若し人能く浄戒を持てば、是れ則ち能く善法有り。
  若し浄戒無ければ、諸の善の功徳、皆生ずることを得ず。
  是れを以て当に知るべし、戒を第一安穏功徳之所住処と為すことを。


「もし人が、確かに浄戒を持ったならば、ここに正しく善法がある。だが、もし浄戒を持つことが無ければ、諸々の善功徳が得られることはない。これによって知るべきである。戒こそが、涅槃という最上の平安を得る功徳が生じる元であることを」

           【語義の吟味と考察】

本文には無いが、この遺教は、その内容によって7部分に分けて学ぶのが普通だと言う。即ち、最初が、「序文」 続いて修行の「七つの功徳」3番目に「大人の8功徳」4番目に「畢竟甚深の功徳の顕示」と深まる。

昨日の序文に続き、いよいよ今日から本文、つまり修行の功徳について教わるわけだが、最初に強調されたのが「戒」の重要性である。釈尊は、「我が滅後において波羅提木叉(ハラダイモクジャ)を尊重・珍敬すべし」と教示された。

「波羅提木又」はインド語の音写で「戒律・道徳」を意味し、「珍敬」は大事にすること。そして戒律は闇夜の灯火、汝らの大師である、と説諭し、自分がこの世から去っても、これ以上の教えは無い、とも述べておられる。

日本仏教では、戒律を軽視する傾向があり、僧侶の妻帯・肉食、蓄財を咎める者もいないが、釈尊は、何よりもまず、全ての修行者に、仏道を歩む最初の基本的条件として先ず心身を整え、生活を整えることを求め、その具体的実践が戒律の遵守である。

であるから、「浄戒を持たん者」すなわち出家者は、田畑や家具など所有せず、物品交換・販売、更には使用人を雇ったり家畜を飼ってはならない、とされる。財を求める行為は正に「火坑」燃え盛る火山の火口である。
これらを遠離(おんり)することによって初めて禅定に入り悟りが得られる。それが修行である、と強調しておられる。

修行者の生活は如何にあるべきか。「学道の人は、須く貧なるべし。僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居処を思わず、衣食を貪らず」つまり全くの無一物で食事も一般の人々からいただく托鉢に頼る。衣服は、「カーサーヤ」つまり「汚れで黄茶色になった古い布切れ」で作った袈裟であらねばならぬ。

この点は、道元禅師もとりわけ強調し、『正法眼蔵』の「袈裟功徳」で「袈裟の最も清らかな衣材は”糞帰依”である。人天の布施するところの浄財、これを用ひるべし。」と述べておられるのを思い出す。

現在の寺院で僧侶が着ている袈裟は、豪華絢爛、しかも宗門の地位によって厳しく色分けされており、権威の象徴になっている。今、ここに釈尊がお出ましになれば、どう仰るであろうか?

「三宝を敬え」は、仏道を志す者すべて、仏、法、僧(集団)に従わねばならない。これも釈迦牟尼仏の重要な教えである。現在の僧(集団)を率いる高僧は、自ら着けておられる袈裟の意味をどう説明されるのであろう。

在家信徒たちに、「仏遺教経」を説法される時、この釈尊の教えをどう解説しておられるのであろうか? 袈裟の意味一つ取り上げても日本仏教の現実は、釈尊の教えからかなり違った受け止めのように感じる。

ともかく、私は、今回、「仏遺教経」を釈尊が私自身に向けてお示しくださった教えと受け止め学ばせていただきたいと願っている。今回の「戒」の意味付け、誠に心動かされる重要な教えだと思う。

「戒律」と言えば、上位の権威・権力者が命ずる禁止条項のように感じられるが、釈尊の説諭は、そうではなく、「戒」を身につければ、他からとやかく言われるまでもなく、自ずと自らを整えるようになる。そうして初めて仏道を歩み禅定に入ることが出来る、とのご趣旨と知った。
釈尊直々の説諭、誠に心に響くものがある。

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