「法句経」を学ぶ(12)
【仏の道:遠望・近見】 (108)
「法句経」を学ぶ(12)
第十二 己身の部
一五七 人若し己を愛すれば須らく善く愼みて己を護れ、智者は三時の中一
たびは 自ら省みる所あるべし。
第12章 自己
157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。
賢い人は、 夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで
目ざめておれ。
一五八 初めに自ら應爲に住すべし、而して後他人を誨へよ、(斯くする)
智者は 煩はざらん。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な
人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
一五九 他に誨ゆる如く自ら剋修すべし、(自ら)善く調をさめて而して後
能く(他を)調む、己を調むるは實に難し。
159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた
人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
一六〇 己を以て主とす、他に何ぞ主あらんや、己を善く調めぬれば能く
得難き主 を得。
160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよ くととのえたならば、得難き主を得る。
一六一 自の造れる、自より生ぜる、自に因る罪は愚者を壞る、猶ほ金剛
の寶石を (壞るが)如し。
161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を
打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。
一六二 人若し少しも戒を持たずんば、蔓の滋れる沙羅樹の如く、自ら敵の
欲する まゝに擧動ふるまふ。 蔓の滋れる沙羅樹―多くの蔓草に纏
はれたる沙羅樹は枯るゝが如く、人若し少しも 戒を持たずんば己
を亡ぼす、これ怨敵の欲樂する所なり。
162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分
に対してなす。──蔓草が沙羅の木にまといつくように。
一六三 不善と己を益せざることは爲し易し、益し且善くある事は甚だ爲し
難し。
163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになる
こと、善 いことは、実に極めてなし難い。
一六四 尊き如法なる聖人の教を譏る愚人は惡見に據る、彼は劫 迦樹の如
く果 熟すれば己を亡ぼす。
164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者 ちの教 えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカと
いう草は果実が熟す ると自分自身が滅びてしまうように。
一六五 自ら罪を造りて汚れ、自ら罪を造らずして自ら淨めり、淨不淨は
己に屬 す、他に由りて淨めらるゝことなし。
165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないな ば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらで
ある。人は他人を浄める ことができない。
一六六 他を利することは如何に重大なりとも、己を益することを廢 やむ
べからず、己の本分を識りて恆に本分に專心なれ。
166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の
目的のた めに自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を
熟知して、自分のつとめに 専念せよ。
【感想と考察】
この章では、釈尊は、人、皆、すべて最も大切なものは、己自身である。それ故、人は、自己を守り、自己を調え、制御し、「自己こそはこの己の主である」と知らねばならぬ。他人に働きかける前に、まず、己自身の義務を尽くせ、と自覚を促しておられる。
実は、自己は実に制御し難い。自己のなした悪は全て自己から生じたもので愚か者を打ち砕く。破戒の激しい人は自ら破滅する。尊敬されるべき人の教えを非難する愚か者は自ら破滅する。自ら悪をなせば自らを汚す。
それ故に人は、先ず、自らを正しく調え、自らを浄めなければならない。何よりも悪を成さなければ自ら浄める。すなわち、浄・不浄は自らの行いでなる。自ら清浄でなければ他人を浄めることは出来ない。先ず、他人に教えるごとく自ら行うべし。それが出来る自己こそ自らの主である。自己がよく制御された時、人は真に得難い主を得たのである。
自戒を促す説諭である。