「仏遺教経」を読む (7)

【仏の道:遠望・近見】 (129)
「仏遺教経」を読む (7)


II 修習世間功徳分。



              六 驕慢の誡め

  汝等比丘、当に自ら頭を摩づべし、
  已に飾好を捨てて壊色の衣を著し
  応器を執持して乞を以て自活す、
  自見是の如し、若し驕慢起らば当に疾く之を滅すべし、


 「比丘達よ、自らの(剃りあげた)頭を撫でてみよ。既に身に飾る事を捨て、壊色の袈裟を纏い、鉄鉢を携えて托鉢によって生活しているのである。自身は出家修行者なのだ。もし驕り高ぶりの心が起こったならば、速やかにそれを取り除かなけらばならない」


  驕慢を増長するは尚世俗白衣の宜しき所に非ず、
  何かに況んや出家入道の人、
  解脱の為の故に自ら其身を降して而も乞を行ずるをや。


「驕り高ぶりのここばそを強くさせることは、世相の在家者ですら良しとされてはない。まして出家入道の人で、解脱を求めて自らその身を除し、托鉢する者ならばなおさらである」

          【語義の吟味と考察】

人は、少し他人と異なる行為・行動を起こすと、何か自分は他者と異なる善きことに踏み込んだような気持ちを持ち始め、「おごり高ぶって人を見下し、自分勝手な行動を良し」とする傾向がある。釈尊は、この「驕慢」を強く誡めておられる。

そして弟子達に向かって問い質された。「その剃り上げた頭を撫でて見よ」 何のために丸坊主になったのか? 身に着けるすべての虚飾を廃し、ボロ袈裟を身に纏い、托鉢によって乞食生活を始めた。即ち出家修行のためである。

そこに驕り・昂りの心が生じたならば、速やかに除かねばならぬ。仏道を歩むことを始めたことによって「自分は、他者と異なり善きことに踏み込んだ」などというような了見を起こすなどとんでも無い見当違いである。そのような考え方は在家信者にも許されない。ましてや出家者においておや、おまえたちは、解脱を求めてその身を除して出家入道したのではないか。

確かに頭髪は”身を飾る”象徴である。衣服もまた身分、地位、学歴、職業など世を渡り歩くに重要な装飾である。それを男女を問わず得度すれば、「頭を剃る」 そして華やか、かつ豪華を競った衣服も捨てて、ボロ切れの糞掃衣(フンゾウエ)を身に纏い、食生活も托鉢だけに頼る乞食(コツジキ)に徹したのは何故か?

「乞」(コツ)によって自活する。「頂くだけ」で「選び」も「求め」も出来ない、しかも「余剰を蓄える」こともご法度の世界に転じた。その出家入道の初心を改めて問われている。

釈尊のこの遺教は、日本仏教の現状を考える時、関係者に深く反省を求めねばなるまい。仏教辞典によれば、日本の法衣の現況は、律衣・教衣・禅衣の流れがあり教衣・禅衣は国家の司祭として権威者の立場が表現されている。

従って冠位十二階で定められたように国家の規定による色が尊重され、仏教各宗派では、緋色を上位に定めている宗派、緋または紫を上位にもってくる宗派もあり多様だ。

深紫、浅紫、白、水色、黒、香、木蘭、墨、萌黄、黄色、浅黄、鳶色、紅香、藤色、鳶色、栗皮色や縦糸、横糸の色を変えて橡葉重、落葉重、青丹、松葉重などのように混色としたもの等が多く使われ、それぞれ僧職の地位・権限を示す。正に俗世の中央集権・帝政国家の官僚制度そのものだ。

釈尊のこの遺教から逸脱していることは明白である。観光仏教、葬式仏教の主宰者が権威を振りかざす必要だ、と言うなら、それなりに解らぬでもない。だがそれは俗世の理屈だ。釈尊は、この遺教で明白にそれを否定しておられる。

仏教界に関心を寄せ仏道を歩む気持ちを強めた私自身、大きな抵抗を感じるのは、僧侶の優越心、世俗を蔑む思い上がりな態度である。袈裟姿の僧侶独特の態度に、釈尊ご指摘の「驕慢の心」を感じている。

出家入道は俗を捨てて聖に入るものはない。釈尊の教えには、聖と俗の区別はない。むしろそれも徹底的に否定されている。日本仏教の指導者は、深く反省すべきではあるまいか。

II 修習世間功徳分。



             七 諂曲の誡め

  汝等比丘、諂曲の心は道と相違す。
  是の故に宜しく応に其の心を質直にすべし。
  当に知るべし、諂曲はただ欺おうを為すことを。
  入道の人は則ち是の処りなし。
  是の故に汝等宜しく端心にして質直を以って本と為すべし。

「比丘達よ、他者から良く思われようと諂いおもねる心は、仏道と相違するのである。このことから、正によく自らの心を質直にしなければならない」
「正に知るべきである。他者に諂いおもねることは、人を欺くことに他ならないことを。人道の人に、それは相応しい行いではない。このことから、比丘達よ、正によくよく心を正して、正直をもって自らの本分とせよ」

           【語義の吟味と考察】

諂曲(テンゴク)とはへつらい、おべっかのこと。他人から良く思われようと、媚び、へつらう心は仏道に反するものである。他者にこび、へつらう行為は、実は、人を欺くことでしかないことを知れ。それは人の歩むべき道としてふさわしいものではない。ただ、正直をもって自らの本分とすべし。
我々の日常の言動を顧みると、思い当たること、多々あり。大いに反省させられる教えである。

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