「仏遺教経」を読む (10)
【仏の道:遠望・近見】 (132)
「仏遺教経」を読む (10)
Ⅲ 成就出世間大人功徳分八
六 禅定の功徳
汝等比丘、若し念を攝むる者は、心則ち定に在り
心定に在るが故に能く世間生滅の法相を知る、
是故に汝等常に当に精勤して諸の定を修集すべし、
若し定を得る者は心則ち散ぜず、
譬えば水を惜める家の善く堤塘を治するが如し、
行者も亦爾なり、
智慧の水の為めの故に善く禅定を修して漏失せざらしむ、
是を名けて定と為す。
「比丘達よ、もし心をよく制したならば、心はすなわち定にある。心に定があれば、よく世間の生滅する物事の真実なる姿を知る。このことから修行者達よ、常に精進して諸々の定を修習するべきである」
「もし定を得たならば、心が乱れることはない。譬えば水を大切にする家は、よく堤防を管理・保全するようなものである。行者もまた同様である。智慧の水を得るために、正しく禅定を修めて(智慧という水を)漏らして失わせないのである。これを名づけて定というのである」
【語義の吟味と考察】
仏教の「定」(じょう)は、梵語のサマーディ( samādhi)の中国語訳である。インドの元の意味は「心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神作用」を意味する。仏教では、更に「心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態を総称して定と概念規定している。
samādhiの音写は「三昧」(さんまい)で仏教で言う「三学」(戒·定·慧)の一つで実践道の柱でもある。常に心を制して正しい禅定を習得する精進を積み重ねて真の智慧を得るべし、と説かれている。
七 智慧の功徳
汝等比丘、若し智慧あれば則ち貪著なし、
常に自ら省察して失有らしめざれ、
是れ則ち我が法中に於いて能く解脱を得、
若し爾らざる者は既に道人にあらず又白衣に非ず、
名くる所なし、
實智慧の者は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、
亦是れ無明黒闇の大明灯なり、
一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐るの利斧なり、
是故に汝等、当に聞思修の慧を以て而も自ら増益すべし、
若し人智慧の照あれば
是れ肉眼なりと雖而も是れ明見の人なり、
是れを智慧と名く。
「比丘達よ、もし智慧があれば物事を貪り、執着することはない。常に自らを省察し、智慧を失うことのないように、そのような者は、私の教えの中において解脱を得るであろう。もしそうでない者ならば、既に出家修行者ではない。また在家信者でもない。名付けようのない者である」
「真実の智慧とは、この老・病・死の海を渡る堅牢な船である。または無明という暗黒における大いなる燈明である。全ての病苦の良薬である。煩悩という樹を伐採する鋭利な斧である」
「このことから修行者達よ、正に闇・思:修の智慧を持って、自らまたそれを磨き強めなければならない。もし人に智慧の輝きがあるならば、それがたとい肉眼であったとしても、その人は真理を明らかに見る人である。これを智慧というのである」
【語義の吟味と考察】
「もし智慧があれば物事を貪り、執着することはない。常に自らを省察し、智慧を失うことのないように、正に、闇・思:修の智慧を持って、自らまたそれを磨き強めなければならない」と説諭されている。
仏教語としての「智慧」は、現象のすべてと、それぞれの現象の背後にある道理を見きわめる心作用を意味する。その多くは、世俗的な”賢しら”ではなく、世事を離れた叡智や、世事を見通す叡智を指している。また「諦」(真諦)を悟るものとの意味も含まれる。
『岩波 仏教辞典』では、細かく言えば(般若と同等の意味)または(智が慧と区別される場合の智慧)と使い分けられていたり、両方が「智慧」の一語に込められて広い意味で用いられていりすると解説している。
だが、我々の日常語では説明し難い世界、やはり修行を積み重ねることにより体得することが大事に思える。般若心経にもある「般若の知恵」を思い起こす。
八 究意の功徳
汝等比丘、若し種種の戯論は、其の心則ち乱る、
復た出家すと雖も、猶お未だ得脱せず、
是の故に比丘、当に急に乱心戯論を捨離すべし、
若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、
唯だ当に善く戯論之患を滅すべし、
是れを不戯論と名づく。
「比丘達よ、もし様々に無意味な議論をしたならば、その心は乱れる。(心が乱れたままであれば)出家したと言っても解脱することは出来ない」
「このことから修行者達よ、正に速やかに心を乱す無意味な議論を止めるべきである。もし何時が、寂滅の安楽を得ようと願うならば、ただ正に無意味な議論による患いを滅ぼすべきである。これをと名づけるのである」
【語義の吟味と考察】
究意(クキョウ)は「究極に達する」つまり般若心経にもある「究竟涅槃」悩み、苦しみのない安楽の境地。更に言えば、自己中心的欲望や執着を離れて心落ち着き最高の幸せな境地を意味する。
ところが、説諭の内容は、「不戯論」 無意味な議論ばかりしていると心は乱れる。速やかに無駄な議論は止めよ。本当に寂滅の安楽を願うなら無意味な議論による患いを滅ぼすべきである、と説かれている。
確かに「究竟涅槃」に達したならば、一切の議論は止むはずである。修行者の目的は解脱。”苦境”にあるはず。にもかかわらず、比丘達の議論が続くのは何故か? 自問せよ、と仰せになっている。
現代の仏教学者たちの多くが、仏道を精進せず、仏典の文言解釈で”自論”を競っているのを見ると、その深刻な外道ぶりの蔓延がよく分かる。