「帰依三法」を学ぶ(11)
【仏の道:遠望・近見】 (156)
「帰依三法」を学ぶ(11)
法句経に云く、
「昔、天帝有り、自ら命終して驢中に生ぜんことを知り、
愁憂すること已まずして曰く、
「苦厄を救はん者は、唯仏世尊のみなり。」
法句経には次のように説かれている。
「昔ある帝釈天が、自分の命が終ると来世は驢馬に生まれることを知って、憂い悲しんで言った。「私のこの苦難を救ってくれるものは仏(釈尊)しかいない。」と。
便ち仏の所に至り、稽首伏地して、仏に帰依したてまつる。
未だ起きざる間に、其の命 便ち終って驢胎に生ず。
そこですぐに仏の所に行き、地に伏して礼拝し、仏に帰依した。帝釈天は、礼拝からまだ起き上がらない間に命が終り、驢馬の胎内に生まれた。
母の驢、鞚断たれて陶家の坏器を破る。
器主 之を打つ。遂に其の胎を傷つけ、天帝の身中に還り入る。
すると、母の驢馬の手綱が切れて瀬戸物屋の陶器を壊し、店屋の主が怒って驢馬を打った。それで驢馬の胎が傷ついて、また帝釈天の身に帰ることが出来た。
仏 言はく、
「殞命の際、三宝に帰依す、罪対 已に畢りぬ。」
天帝 之を聞き、初果を得たり。
そこで仏が言われるには、
「命を落とす際に三宝(仏陀、仏法、僧団)に帰依したので、罪に対することが終ったのである。」と。帝釈天はこの言葉を聞いて、聖者の最初の悟りを得た。」
おほよそ世間の苦厄をすくふこと、仏世尊にはしかず。
このゆゑに、天帝いそぎ世尊のみもとに詣す。
伏地のあひだに命終し、驢胎に生ず。
およそ世間の苦難を救うことに於て、仏に及ぶ者はいない。それでこの帝釈天は、急いで仏の所に参詣したのだ。そして地に伏して礼拝する間に命が終わり、驢馬の胎内に生まれた。
帰仏の功徳により、驢母の鞚やぶれて、
陶家の坏器を踏破す。器主これをうつ。
驢母の身いたみて、託胎の驢やぶれぬ。
すなはち天帝の身にかへりいる。
仏説をききて初果をうる、帰依三宝の功徳力なり。
そして仏に帰依した功徳によって、驢馬の母の手綱が切れて瀬戸物屋の陶器を壊し、店主が驢馬を打って驢馬の母の身は傷み、胎の驢馬が傷ついて帝釈天の身に帰ることが出来た。そして仏の教えを聞いて最初の聖者の悟りを得たのは、三宝に帰依した功徳力のおかげであった。
しかあればすなはち、世間の苦厄すみやかにはなれて、
無上菩提を証得せしむること、かならず帰依三宝のちからなるべし。
このように、世間の苦難を速やかに離れて、無上の悟りを得させるものは、三宝に帰依する功徳力なのである。
おほよそ三帰のちから、三悪道をはなるるのみにあらず、
天帝釈の身に還入す。天上の果報をうるのみにあらず、
須陀洹の聖者となる。
まことに三宝の功徳海、無量無辺にましますなり。
およそ三宝帰依の功徳力によって、地獄 餓鬼 畜生などの三悪道を離れるだけでなく、帝釈天の身に帰った。天上界に生まれる果報を得るだけでなく、須陀洹(最初の悟りを得た者)の聖者となった。まことに三宝の功徳の海は広大で計り知れぬものがある。
世尊在世は、人天この慶幸あり。
いま如来滅後、後五百歳のとき、人天いかがせん。
しかあれども、如来形像舎利等、
なほ世間に現住しまします。
これに帰依したてまつるに、またかみのごとくの功徳をうるなり。
仏(釈尊)が世に居られた時には、人間界や天上界の人々に、このような幸せがあった。しかし今は仏の滅後、五百年の時であり、人間界や天上界の人々は一体どうすればよいであろうか。しかしながら、仏像や舎利(仏の遺骨)などが今も世間にあり、これに帰依すれば、またこのような功徳が得られるのである。
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