「法句経」を学ぶ(2)
【仏の道:遠望・近見】 (98)
「法句経」を学ぶ(2)
第二 不放逸の部
二一 不放逸は不死に到り、放逸は死に到る、
不放逸の者は死せず、放逸の者は 死せるに同じ。
第2章 はげみ
21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
二二 明かに此の理を知りて善く不放逸なる人々は
不放逸を歡こび、聖者の境界 を樂しむ。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
二三 彼等は靜慮し、堅忍し、常に勇猛に、
聰慧にして無上安穩の涅槃を得。
23 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。
二四 奮勵し、熟慮し、淨き作業を勉め、自ら制し、
如法に生活し、不放逸なれ ば、其人の稱譽は増長す。
24 こころはふるい立ち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。
二五 奮勵により、不放逸により、制御により、
又訓練により智者は暴流に漂蕩 せられざる洲を作るべし。
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
二六 愚なる凡夫は放逸に耽る、智者は不放逸を護ること
猶ほ珍財を護るが如くす。
26 智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる。
二七 放逸に耽る勿れ、欲樂を習ふ勿れ、
靜慮不放逸なる人は大なる樂を得。
27 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
二八 不放逸により放逸を却けたる識者は智慧の閣に昇り、
憂なく、憂ある人を 觀る、山上に居る人が
平地の人を(觀るが)如く、泰然として愚者を觀る。
28 賢者が精励修行によって怠惰をしりぞけるときには、智者の高閣に登り、自から憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下す。山上にいる人が地上の人々を見下すように。
二九 逸放の中に在りて不放逸に、眠れる中に處して
能く寤めたる賢人は駿馬の 如く駑馬を後にして進む。
29 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。
三〇 摩掲梵は不放逸によりて諸神の主となるを得たり、
人咸な不放逸を稱贊 す、放逸は常に非難せらる。
30 マガヴァー(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。
三一 不放逸を樂しみ放逸を畏るゝ出家は行きつゝ
粗細の結を燒く、猶ほ火の如し。
31 いそしむことを楽しみ放逸におそれをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでもすべて心のわずらいを、焼きつくしながら歩む。燃える火のように。
三二 不放逸を樂しみ放逸を畏るゝ出家は退轉するの理なし、
彼は既に涅槃に近づけり。
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
【感想と考察】
この章では、放逸(怠け)を戒め、「不放逸」(励み)の大切さを説かれている。即ち、仏道の励みは「不死の道」であり、その怠りは「死の道」である。「不放逸」に通達した人は「賢人の境地」を楽しむ。賢者たちは常に督励しあい、無上の安らぎ”涅槃”を獲得し、煩悩が侵すところない州(島)を作る。
愚か者は放逸に耽るが、賢者は「不放逸」「精励」「自制」によって放逸を避けあらゆる「憂い」を去る。修行者は「不放逸」を楽しみ、放逸の呪縛を焼き尽くしながら進む。既に涅槃に近づいた者は退転することはない。
ざっと、このような文脈の教えであろうか。 第二章のタイトルは中村訳では「はげみ」萩原訳では「不放逸」となっている。原語は”appamada” 釈迦牟尼入滅時に「怠けることなく自己完成せよ」と言う遺訓を残された故事により仏語として熟している。
反対語は「怠け」で原語は”pramada” 仏教では煩悩の一つとされ、気ままで仏道に専念しないことを意味する。ここでは仏語として定着している「不放逸」の語義を深めるべきであろう。
一旦、仏道を志しても、常に「不放逸」「精励」「自制」によって放逸を避けねば願う「無上の安らぎ・・涅槃」は獲得出来ない。釈迦牟尼の遺訓である。常に誠実に励み、努めることによってのみ憂いは去る。
第2章は、前回の第1章の最後の2節と併せ読むとより理解が深まるのではあるまいか。即ち
「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない」(19節)
「たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る」(20節)
放逸(怠け)を戒め、「不放逸」(励み)・・・菩薩道に目覚めるだけでは何一つ変わらない。出家、在家を問わず、要は、その後の精励な修行(実践)にある。