「帰依三法」を学ぶ(13・最終回)

【仏の道:遠望・近見】 (158) 


「帰依三法」を学ぶ(13・最終回)

   これを天帝拝畜為師の因縁と称す。
   あきらかにしりぬ、仏名、法名、僧名のききがたきこと、
   天帝の野干を師とせし、その証なるべし。


 これを、帝釈天が畜類を礼拝して師とした因縁と言う。この話から明らかに知られることは、仏(仏陀)という呼び名、法(仏法)という呼び名、僧(僧団)という呼び名は、この世界では聞くことが難しいということ。これは、帝釈天が仏の名を称えた狐を師としたことが、その証拠と言えよう。

   いまわれら宿善のたすくるによりて、
   如来の遺法にあふたてまつり、
   昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、
   時とともにして不退なり。これすなはち法要なるべし。


 今我々は、過去世の善行の助けによって、釈尊の残されたみ教えに会うことができ、昼夜に仏、法、僧という三宝の尊い呼び名を聞いて止む時がない。これが仏法の大切なところなのである。

   天魔波旬、なほ三宝に帰依したてまつりて患難をまぬかる。
   いかにいはんや余者の、三宝の功徳におきて、
   積功累徳せらん、はかりしらざらめやは。


 天界の魔王でさえ、三宝に帰依して悩み苦しみを免れる。ましてその他の者が、三宝の功徳を積み重ねたならば、その果報は計り知れないことであろう。

   おほよそ仏子の行道、
   かならずまづ十方の三宝を敬礼したてまつり、
   十方の三宝を勧請したてまつりて、そのみまへに焼香散華して、
   まさに諸行を修するなり。
   これすなはち古先の勝躅なり、仏祖の古儀なり。


 およそ仏弟子の仏道修行とは、必ず最初に、十方の三宝を恭敬礼拝して十方の三宝をお迎えし、その御前で香を焚き、華を散らして供養してから、まさに様々な行を修めるのである。これは古聖先哲が行ってきた勝れた足跡であり、仏や祖師の古来の決まりなのである。

   もし帰依三宝の儀いまだかつておこなはざるは、
   これ外道の法なりとしるべし、
   または天魔の法ならんとしるべし。
   仏仏祖祖の法は、かならずそのはじめに帰依三宝の儀軌あるなり。


 もし、三宝に帰依する儀式を一度も行ったことがないのであれば、これは外道の法であると知るべし。又は、人を惑わす天魔の法であろうとわきまえよ。仏から仏、祖師から祖師へと伝えられた法は、必ずその初めに三宝に帰依するという儀式がある。
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  正法眼蔵 帰依三宝 第六
建長七年 乙卯夏安居の日、先師の御草本を以て書写し畢る。未だ中書、清書等に及ばず、定んで御再治の時、添削有る歟、今に於て其の儀、叶ふべからず。仍って御草、此の如く云う。
弘安二年 己卯夏安居 五月二十一日、越宇中浜新善光寺に在って之を書写す。義雲

  正法眼蔵 帰依三宝 第六
 建長七年、夏安居(夏期九十日修行)の日に、先師(師の道元)の残された原稿を書写した。まだ清書されておらず、きっと御病気が治られた時には添削されたことであろう。今ではその事は叶わないので原稿のままである。
弘安二年、夏安居の五月二十一日、越前中浜新善光寺にてこれを書写する。 義雲

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