「法句経」を学ぶ(16)
【仏の道:遠望・近見】 (112)
「法句経」を学ぶ(16)
第十六 愛好の部
二〇九 不相應に相應し、相應に相應せず、實義を捨てて可愛を執取する
人は自ら 相應する人を妬む。
第16章 愛するもの
209 道に違うたことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨
てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに
至るであろう。
二一〇 所愛と會ふ勿れ、決して非愛と(會ふ勿れ)、所愛を見ざるは苦
なり、又 非愛を見るも(苦なり)。
210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは
苦し い。また愛しない人に会うのも苦しい。
二一一 故に愛を造る勿れ、所愛を失ふは災なり、愛非愛なき人には諸の
繋累ある ことなし。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。
愛する 人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
二一二 愛より憂を生じ、愛より畏を生ず、愛を離れたる人に憂なし、何の
處にか 畏あらん。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛する
ものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることが
あろうか?
二一三 親愛より憂を生じ、親愛より畏を生ず、親愛を離れたる人に憂
なし、何の 處にか畏あらん。
213 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば
憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
二一四 愛樂げうより憂を生じ、愛樂より畏を生ず、愛樂を離れたる人に
憂なし、 何の處にか畏あらん。
214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば
憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
二一五 愛欲より憂を生じ、愛欲より畏を生ず、愛欲を離れたる人に
憂なし、何の 處にか畏あらん。
215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、
憂いは 存しない。どうして恐れることがあろうか。
二一六 渇愛より憂を生じ、渇愛より畏を生ず、渇愛を離れたる人に
憂なし、何の 處にか畏あらん。
216 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、
憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
二一七 戒と見とを具へ、正しく、實語し、自の所作を作す人は衆に
愛せらる。
217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分の
なすぺきことを行なう人は、人々から愛される。
二一八 無名を希望し、作意して怠らず、心諸欲に拘礙せられざれば、
彼は上流と 名づけらる。
218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、
意はみた され、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを
上る者)とよばれる。
二一九 久しく遠方に行き安全にして還る人を親戚及び朋友が歡こんで
迎ふる如 く、
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚
友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
二二〇 是の如く福を造り此の世より他(世)に往ける人は、福業へ
迎へらる、還 り來れる所愛が親戚に(迎へらるゝが)如く。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が
迎え受ける。親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
【感想と考察】
第16章は、愛。耳障りのいい言葉だが、仏教では”忌言葉”だ。本章では、愛(好)から憂いや怖れが生じる。愛から遠ざかれ、と教える。
愛に執着してはならぬ。愛する人と会うな。憎い人とも会うな。愛憎は一体である。愛するものを作るな。知れ 、愛より憂い、怖れが生じる。実に愛に執着する者は専心瞑想する人を羨む。愛憎のない人には束縛が無いからである。
愛を離れた人には、欲楽、愛欲、親愛、欲情、欲望が無い。戒と識見を備え正法に住し、真実を語り、自己の務めを行う者は敬愛される。言葉の説明を超えた境地に向かい、思慮に富み、心が欲に束縛されない人は「流れを遡る者」と言われる。
だが、遠方から帰る人を喜んで迎えるように、善いことをして、この世からあの世へ行く人は、良い果報に迎えられる。