「法句経」を学ぶ(7)
【仏の道:遠望・近見】 (103)
「法句経」を学ぶ(7)
第七 阿羅漢の部
九〇 經べき途を已に過ぎ、憂を除き、一切に於て解脱し、一切の縛を
斷てる人には苦惱あることなし。
第7章 真人
90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろ
いで、 あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
九一 彼等は精勤し、熟慮して住宅を喜ばず、鵝の小池を棄つるが如く、
彼等は あらゆる住處を棄つ。
91 こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。
白鳥が 池を立ち去るように、かれはあの家、この家を捨てる。
九二 若し人蓄積する所なく、受用度あり、(心)空、無相、解脱に遊ぶとき
は、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の跡の如
し。 行跡尋ぬべきこと難し―已に變化的存在なる迷界を出で涅槃界に
入れるを云ふ。
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の
境地は 空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難
い。空飛ぶ鳥の 迹の知りがたいように。
九三 若し人心の穢を盡し、飮食を樂著せず、(心)空、無相、解脱に遊ぶと
き は其人の行跡は尋ぬべきこと難し猶ほ虚空に於ける鳥の(跡の)如し。
93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は
空にして 無相であるならば、かれの足跡は知り難い。
空飛ぶ鳥の迹の知りがたいよう に。
九四 若し人感官を制し、御者に善く馴らされたる馬の如くし、貢慢を斷
ち、心 の穢を盡せば、諸神すら、斯かる如なる人を羨む。
94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、
汚れのな くなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。
九五 如なる人は地の如く爭はず、閾の如く能く愼しみ、淤泥なき池の如
し、如 なる人に輪廻なし。
95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、
(深い)湖は汚 れた泥がないように、そのような境地にある人には、
もはや生死の世は絶たれて いる。
九六 意寂靜、語も業も亦寂靜なる如なる人は、正智にて解脱し、安穩を得
たる 人なり。
96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人 そのような人の
心は静 かである。ことばも静かである。行いも静かである。
九七 (餘の)信を離れ、無作を證し、(續 生の)結を斷ち、誘惑を斥ぞけ、
希望を棄てたる人こそ眞の最上士なれ。
97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、
生死の絆 を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、
かれこそ実に最上の 人である。
九八 村落に於ても、將た林中に於ても、平野に於ても、高原に於ても、
阿羅漢の住する處は樂しからざるなし。
98 村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者の住む土地は楽しい。
九九 林は愛樂すべし、これ俗人の好まざる所、離欲の人は此を樂しむ、
彼等は愛欲を求めざるが故なり。
99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき
人々は楽 しむであろう。かれは快楽を求めないからである。
【感想と考察】
第7章は、全て、一切を捨てた人を褒め称えておられる。
憂いを離れ、解脱し、この世の一切の束縛を絶った人は出家し、”空”と”無相”の境地にあり、一般人は追随し難い。感覚が静まり、慢心を捨てて煩悩を滅失した人を神々さえ羨むものである。
正しく悟りを得た人は、心も、言葉も、行いも寂静で、妄信無く、欲望を捨てている。このような人を「阿羅漢」と称する。阿羅漢の住する場所は、どんな土地でも、森林でも、その場は楽しい。そこでは欲望を求めないからである。
理想の真人を仏陀は尊敬されるべき最上の人「阿羅漢」と呼び倣いとされた。道を求める者の目指すべき理想像である。