八大人覚」 (7)

【仏の道:遠望・近見】 (88)
「八大人覚」 (7) 

【智慧修する意味について】

    七つには「修智慧」。
    聞思修証を起こすを、智慧と為す。
    【語義注釈】
    ◉ 聞思修証
:教法を聴聞して得る智慧であり、これを思量して得る
     智慧であり、またそれを修行・実践して得る智慧であるが、更に
     これに加えて”慧を証する” つまり悟りを開くことも含くまれてい
     る、と説く。

第七は修智慧(解脱の智慧を修めること)である。仏の教えを聞いて、それを 思惟して、修行して得た悟りを智慧という。 

    仏の言はく、
    「汝等比丘、若し智慧有れば、
    則ち貪著無 し。
    常に自ら省察して、失有らしめざれ。
    是れ則ち我が法の中に 於て、
    能く解脱を得ん。
 

  仏(釈尊)の仰るには、
「比丘(僧)たちよ、もし解脱の智慧があれば、貪り執著は無くなるのである。だから、常に自らを省みて、貪り執著のあやまちを犯さないようにしなさい。これが、我が法の中で煩悩の解脱を得る方法である。

    若し爾らざれば、既に道人に非ず。
    又 白衣に非ず。名づくる所無し。
    実智慧は、則ち是れ老病死海を
    度る堅牢の船なり。
 

比丘にもし解脱の智慧がなければ、それは出家の人でも、また在家の人でもない。名づけようのない人である。まことの解脱の智慧は、老病死の苦海を渡るための堅固な船である。

    亦た是れ無明黒闇の大明燈なり、
    一切病者の良薬 なり、
    煩悩の樹を伐る
    利斧なり。是の故に汝等、
    当に聞思修の慧を以て、
    而も自ら増益すべし。
 

また真理の法に暗い者を照らす大燈明であり、すべての病人の良薬であり、煩悩の 樹を伐る鋭い斧である。だからお前たちは、教えを聞いて、思惟して、修行して得 た解脱の智慧で、自らを益々利益しなさい。 

    若し人智慧の照あれば、
    是れ肉眼なりと雖も、
    而も是れ明見の人なり。
    是れを「智慧」と名づく。」
 

もし人に解脱の智慧の眼があれば、それは肉眼であっても法の眼を具えた人である。これを智慧という。」

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