「仏遺教経」を読む (4)

         【仏の道:遠望・近見】 (126)
         「仏遺教経」を読む (4)
II         
           修習世間功徳分。
          三 多求の誡め
 
  汝等比丘諸の飲食を受けては当に薬を服するが如くすべし、
  好きにおいても悪きにおいても、増減を生ずること勿れ、
  趣(わづか)に身を支うることを得て、以て飢渇を除け、
 

「比丘達よ。(托鉢によって得た)諸々の飲食は、(その見た目・音・匂い・味・舌触りに頓着するっことなく、ただ身体を維持するための)薬を服用するかのように摂るようにせよ。(得た食事が)良いものであっても悪いものであっても頓着あるいは嫌悪の思いを起こさぬように、わずかに得たもので身体を維持し、飢えと乾きとを除け」


  蜂の花を採るに但其の味いのみを取って
  色香を損せざるが如し、比丘も亦爾なり、
  人の供養を受けて自ら悩を除け、
  多く求めて其の善心を壊することを得ること無かれ、
  譬えば智者の牛力の堪うる所の多少を籌量して、
  分を過して以て其の力を竭(つく)さしめざるが如し。

 「蜂蜜が花から蜜を採るのに、ただその蜜だけを採って花の色や香りを損することのないように、比丘もまたそのように飲食の供養を受けるのである」
 「人々からの食事の供与を受け、それでわずかに自身を養え。より多くの供養を求めて人々の善心を損なってはならない。たとえば、智慧ある者が牛を労働に使役するのにその限界をよく見極め、ほどほどに使って牛を疲労させないようなものである」

            【語義の吟味と考察】

 修行の功徳の第3は、「多欲」の誡めである。釈尊は、先ず「飲食」(オンジキ)は薬を飲むようにせよ、と言われる。好き嫌いを言わず、何よりも食事は身体を養う「良薬」と心得ねばならぬ。嗜好や美味・不味で食する量を変えてはならない。適量でなければ良薬ほど毒になるものである。ギクッ、と来る。そのまま思い当たる私の食生活ではないか。

 心得るべきは、「蜂の花を採るに但だ其の味いのみを取って、色香を損せざるが如し」 ミツバチはいろんな花を渡り歩き、必要な蜜は採取するが花自体の色・香りを損なうことはない。比丘の食事は、そのようにあらねばならぬ。

「趣(わづか)に身を支うることを得て、以て飢渇を除け」
 だからこそ、生産活動から離れ、修行の道を歩む者は、衣食住の全てを人々の布施によって賄うのである。「食」は行である。「托鉢」は「乞食」(コツジキ)である。
 すなわち比丘の食事は全て「托鉢」の布施による。自ら求めてはならず、ただ人々の下さるものを選り好みせず、その施しによって身体を養う。それは、(比丘達が)人々に仏の教えを施すかわりにいただく「浄財」である。
だから「譬えば智者の牛力の堪うる所の多少を籌量して、分に過して以て其の力を竭さしめざるが如し。」 智慧ある者は、牛の力量を斟酌し、応分の荷物を背負わせるだけで決して余分な負担をかけ過ぎ苦しめることはしない。出家者は、布施してくださる方々の気持ちを害することがあってはならぬ。
多欲の誡め。衣食住のすべてに関わる教諭である。私は、座禅を知るようになって、禅宗では食前に必ず「五観の偈」を唱えることを学んだ。改めてこの偈の源が釈尊最後の遺教にあることを厳粛に受け止めた。感謝。

1 食材の命の尊さとかけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう 2 この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか
3 むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただく4 欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止める
5 共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきます 


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