「仏遺教経」を読む (3)

【仏の道:遠望・近見】 (125)
「仏遺教経」を読む (3)



            II 修習世間功徳分。
             二 根心の誡め


  汝等比丘、已に能く戒に住す、当に五根を制すべし、
  放逸にして五欲に入らしむること勿れ、
  譬えば牧牛の人の杖を執って之を視せしめて、
  縦逸にして人の苗稼を犯さしめざるが如し。
  若し五根を縦(ほしいまま)にすれば唯だ五欲の将に
  涯畔(がいはん)無うして制すべからざるのみにあらず、
  亦悪馬の轡(くつわづら)を以て制せざれば、
  将当に人を牽いて坑陷に墜さんとするが如し
   
   
「汝ら比丘達は、既に具足戒を受け持っている。(ならば次には、眼・耳・鼻・舌・身体という五つの感覚器官である)五根を制御し、自らの思うがままに(色形・音・匂い・味・触り心地に対する五つの欲望である)五欲に溺れることのないようにたとえば、牛を放牧する者が杖を手に持って牛に見せつけ、牛が勝って気ままに他人の農作物を食べてしまわぬようにするものである」
 「もし五根を勝って気ままにさせたならば、五欲が際限のないものとなるばかりではない。それはまるで人が暴れ馬に乗る時に轡を咬ませてそれを制御しなければ、その馬が、その人を穴に転落させようとするようなものである」


  劫害を被るが如きんば苦一世に止まる、
  五根の賊は禍殃累世(かおうるいせ)に及ぶ害たること甚だ重し、
  慎まずんばあるべからず、
  是の故に智者は、制して而も随わず、
  之を持すること賊の如くにして、縦逸ならしめざれ、
  假令い之を縦にするとも、皆亦久しからずして其磨滅を見ん、

「(自然災害や病気、怪我などの)災いによる苦しみは、人の一生涯を超えて受け続けるものではない。しかし、五根を放逸にした結果として起こる災い・苦しみは、幾世にも亘って自ら受け続けることになる。その害は大変に重大なものとなろう。よくよく慎まねばならない」
 「このことから智慧ある者は、五根を制御し、五欲に惑わされることがない。五根を制御することはあたかも捕縛した盗賊を扱うかのようにして、決して勝手気ままにさせてはならない。例えもし、五根の感じるままに五欲に溺れたとしても、それら欲望に基づく快楽・満足など全ては程なく変化し、結局は虚しいものとなるであろう」


  此の五根は心を其の主と為す、
  是の故に汝等当に好く心を制すべし、
  心の畏るべきこと毒蛇悪獣怨賊よりも甚し、
  大火の越逸なるも、未だ喩とするに足らず、
 

 「この五根は、心をその主とする。このことから、比丘達よ、正しく確かに心を制御しなければならない。心が恐るべきものがあることは、毒蛇・悪獣、怨賊、大火よりも甚だしく、それらをはるかに凌駕するものであることを、いくら強調しても強調し足りぬほどである」

  例えば人有って手に蜜器を執って動転軽躁して
  但蜜のみを見て深坑を見ざるが如し。
  譬えば狂象の鈎無く猿猴の樹を得て騰躍跳躑して、
  禁制すべきこと難きが如し、
  当に急に之を挫いで放逸ならしむること無かるべし、
  此の心を縦にすれば、人の善事を喪う、
  之を一処に制すれば事として弁ぜずと云うことなし、
  是の故に比丘、当に勤めて精進して、其心を折伏すべし。

 「たとえば、ある者が、手に蜜を入れる容器を持ち、平静を欠いて落ち着きなく、ただ目先の蜜ばかりに心を奪われてしまったならば(その蜜のあるある蜂の巣のすぐ下に口を開ける)深い杭に気づくようなことはないようなものである。また、あるいは狂った象を制御し得る技術がないようなものであり、あるいは猿が木に登って飛び跳ね回って手がつけられないようなものである」
 「直ちに心を監視して放逸たらしめないようにしなければならない。この心を勝手気ままにすれば、人は善事を失うのだ。よく気をつけて注意深く、心を気ままにさせることなく、一つ事に留めていれば、事として成就できぬものは無いであろう」
 「このことから比丘達よ、まさに勤め励んで精進し、自らの心を制御しなければならない」

           【語義の吟味と考察】

 前回の修行者達の戒律生活の意味を確認した上で、心しなければならない重要な事柄がある。それは、「五根を制して放逸にして五欲にいらしむることなかれ」

「五根」とは、眼、耳、鼻、舌、身を意味する。この「根」が周囲の環境の刺激を受けて感知するのが「五感」 視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの感覚器官の作用を意味する。そして人は皆、「五感刺激」に動かされて「五欲」を起こす。

この身体の「五根」に心の動きである「意」 つまり「意識」を加えて「六根」とするのが仏教の教義である。ところが、釈尊は、ここでは「意」を取り上げることなく、「五欲」つまり色欲、食欲、睡欲、財欲、名欲を”基本根”としておられるようである。

その認識は、最初の三つ、色欲、食欲、睡欲は動物共通の本能部分、後の名利・財は人間特有の本能的”根”である。そして人間は、この「五欲」寄らねば生きていけない。だが「五欲」はまま、暴走し煩悩を掻き立てる。だから「それを制御せよ」と仰るのである。どのようにすれば、制御できるのであろうか?

釈尊は、「智者は制して而も隨わず。之を持すること賊の如くにして縦逸ならしめざれ」 智慧のある者は五欲を制してその誘いに乗っていくことはない、と言われる。問題は、「智慧のある者」であろう。

仏教では、人間は皆、例外なく生まれた時から清純な”仏心”に恵まれている。その”仏心”に「目覚めた人」が、ここで言われる「智慧ある者」である。出家者は、この仏心に目覚めて悟りの道を求めて真っ直ぐ精進しなければならない。そうすれば、五欲が紛れ込んでくる恐れはない、と諭される。

確かに人間は、生まれ落ちたその瞬間から「我執」に囚われて生きる。「我が意に沿う」ことのみを善とし、それが満たされると喜び、満たされないと不満を唱え、叶わないないと悩み苦しむ。そして煩悩が肥大化する。我々全てが煩悩に悩むのは五欲の暴走を制御できていないからである。

すべては、「心の畏るべきこと」それは、「毒蛇悪獣怨賊よりも甚し、大火の越逸なるも、未だ喩とするに足らず」 実にその恐ろしさは「毒蛇・悪獣、怨賊、大火よりも甚だしく、それらをはるかに凌駕するものである。これは、いくら強調しても強調し足りぬほど根深い」

そして世尊は仰る。
「是の故に比丘、当に勤めて精進して、其心を折伏すべし」
だから、常に勤め励んで精進し、自ら心を制御しなければならぬ」と。

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