「仏遺教経」を読む (11)

【仏の道:遠望・近見】 (133)
「仏遺教経」を読む (11)


                            Ⅳ 顕示畢竟甚深の功徳



   汝等比丘、諸の功徳に於て常に当に一心に
   諸の放逸を捨つること怨賊を離するが如くすべし、
   大悲世尊所説の利益は皆己に究竟す、
   汝等但当に勤めて之を行ずべし、
   若は山間若は空澤の中に於ても、
   若しは樹下閑処静室に在っても、
   所受の法を念じて忘失せしむること勿れ、
   常に当に自ら勉めて精進して之を修すべし、
   為すこと無うして空しく死せば、
   後に悔あることを致さん、
   我は良医の病を知って薬を説くが如し、
   服と不服とは医の咎に非ず、
   又善く導くものの人を善導に導くが如し、
   之を聞いて行かざるは導くものの過にあらず。

「比丘達よ、諸々の功徳ある行いの中でも、常に一心に諸々の放逸なる心を捨て去ることはあたかも怨敵を自らに近づけないようにするが良い」

大悲・世尊が説かれたこれら数々の利益ある行いは、仏陀自らは既に悉く窮め尽くされた。

「修行者達よ、ただ正に勤め励み、これらを行ずるが良い。あるいは山間、あるいは空沢にても、もしくは樹下や、ひっそりとした人気無き地、静かな部屋にあっても、示された教えを心に留めて忘れ去ることのないように、常に正に自ら勤め励み、精進してこれら教えに順って修行せよ」

「人生において何事も成し遂げず、虚しく過ごして死を迎えることになれば、後に悔い憂いることとなろう」

「私は、あたかも良医の如く患者の病をよく知って適した薬を処方するごとく説くのである。その薬を服用するか、しないかは(患者本人の責任であり)医者の責任ではない。また善く導く者が、人を善く導くようなものである。この(善なる道への道程を)聞いて、行かないのは、導く者の過失ではないのだ」

                                Ⅴ 顕示入証決定分


  汝等比丘、若し苦等の四諦に於て疑う所ある者は疾く之を問うべし、
  疑いを懐いて決を求めざること得ること無かれ、
  爾の時に世尊、是の如く三たび唱え給うに、人問い奉つる者無し、
  所以は何ん、衆疑い無きが故に。


「修行者よ、もし苦諦·集諦·減諦·道諦の四聖諦について、疑問や分からぬところがあるあであれば、速やかにこれを問え。疑問を残して答えを求めないことの無いように」
 
  時に阿珸樓馱(あぬるだしゅ)、
  衆の心を観察して而も仏に白して言さく、
  世尊月は熱からしむべく日は冷かならしむべくとも、
  仏の説き給う四諦は、異ならしむべからず、
  仏の説き給う苦諦は實に苦なり、楽ならしむべからず、
  集は真に是れ因なり、更に異因無し、
  苦若し滅すれば即ち因滅す、因滅するが故に果滅す、
  滅苦の道は實に是れ真道なり、更に余道無し、
  世尊是の諸の比丘四諦の中に於て決定して疑い無し、
  此の衆中に於て若し所作未だ弁ぜざる者あらば、
  仏の滅度を見て当に悲感あるべし、若し初めて法に入る者有らば、
  仏の所説を聞いて即ち皆な得度す、
  譬えば夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し、
  若し所作已に弁じ、已に苦海を度る者あらば、但是の念を作すべし、
  世尊の滅度一えに何ぞ疾やかなる哉と。

この時、世尊は、このように三度、問いかけられたが、誰一人として問いを発する者はなかった。なんとなれば(世尊臨終に集った)比丘達には四聖諦について疑問を残した者が無かったためである。その時、アヌルッダは比丘達の心を察して、仏陀に申し上げた。

「世尊、月を熱きものとし、太陽を冷たきものとできたとしたも、ブッダのお説きになった四聖諦は決して変えることの出来ないものです」

「仏陀のお説きになった苦諦は真実に苦であります。これを楽とすることは出来ません。集諦は、まさに苦の原因であって、さらに異なった原因などありません。苦がもし滅するならば、それはすなわちその原因が滅したためです。原因が滅するからこそ、その結果も滅する。苦を滅する道は、誠に真実の道です。他に苦を滅するための道はありません」

「世尊、ここに集った諸々の比丘たちは皆、四聖諦について確信しており、疑いはありません」

                            Ⅵ 分別未入上上證為断疑分



  時に阿珸樓馱(あぬるだしゅ)、
  衆の心を観察して而も仏に白して言さく、
  世尊月は熱からしむべく日は冷かならしむべくとも、
  仏の説き給う四諦は、異ならしむべからず、
  仏の説き給う苦諦は實に苦なり、楽ならしむべからず、
  集は真に是れ因なり、更に異因無し、

  苦若し滅すれば即ち因滅す、因滅するが故に果滅す、
  滅苦の道は實に是れ真道なり、更に余道無し、
  世尊是の諸の比丘四諦の中に於て決定して疑い無し、
  此の衆中に於て若し所作未だ弁ぜざる者あらば、
  仏の滅度を見て当に悲感あるべし、
  若し初めて法に入る者有らば、
  仏の所説を聞いて即ち皆な得度す、
  譬えば夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し
  若し所作已に弁じ、已に苦海を度る者あらば、
  但是の念を作すべし、世尊の滅度一えに何ぞ疾やかなる哉と。

 阿珸樓馱は此語を説いて衆中皆悉く四聖諦の義を了達すと雖、世尊此の諸の大衆をして皆堅固なることを得せしめんと欲して、大悲心を以て復衆の為に説きたもう。

「この比丘達の集いにおいて、もし未だ修行を完成していない者であれば、仏陀のご入滅に際して悲しみに打ちひしがれることでしょう」

「もし、初めて(預流果など聖者の)道に入った者であれば、仏陀の説法をお聞きしたことによって、皆が救いを見出しています。それは譬えば暗闇の夜に稲妻が走ったことによって道の所在を知ることが出来たようなものです」

「もし既に成すべきことを成し終え、既に苦しみの海を渡越えた者であれば(仏陀のご入滅に際して)ただこのような思いをなすでしょう。【嗚呼、世尊の滅度は何と速やかなことであろうか】と。

アルヌッダは、以上のように仏陀に申し上げ、修行者達は皆、全てが四聖諦の意義を知り終わっていた。けれども世尊は、この大勢の修行者達全ての理解を更に堅固にさせようと思われ、大悲心によって再び修行者達のためにお説きになった。

  汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ、
  若我世に住すること一劫するとも、会う者は亦当に滅すべし、
  会うて而も離れざること終に得べからず、
  「自利利人の法は皆具足す、
  若し我れ久しく住するとも更に所益無けむ、
  応に度すべき者は若しは天上人間皆悉とく已に度す、
  其の未だ度せざる者には皆亦已に得度の因縁を作す、
  自今已後我が諸の弟子展転して之を行ぜば
  則ち是れ如来の法身常に在まして而も滅せざるなり、
  是の故に当に知るべし、世は皆無常なり、
  会うものは必ず離るることあり、憂悩を懐くこと勿れ
  世相是の如し、当に勤めて精進して、
  早く解脱を求め智慧の明を以て諸の癡闇を滅すべし、
  世は實に危脆なり、牢強なる者なし、
  我今滅を得ること悪病を除くが如し、
  此は是れ応に捨つべき罪悪の者なり、
  假に名けて身と為す、老病生死の大海に沒在せり、
  何ぞ智者は之を除滅することを得ること
  怨賊を殺すが如くして而も歓喜せざることあらんや。

「比丘達よ、悲しみ憂いることなかれ。もし私がこの世に極めて長大な時間を更に生きたとしても、誰でも会う者には必ずその終わりがあるものだ。(因と縁によって)成立下にも関わらず、滅びないということなど、決してありはしないのだ」

「自らを利益し、他者を利益する教えを全て私は説き尽くし、修行者達は受持している。もし私が久しくこの世に命を留めたとしても、これ以上、説き示して益することなど無いであろう」

「正に(道を示すことによって)救うべき者は、あるいは神々、あるいは人々でも、その者全てを既に救ったのである。未だ(私の示した道によって)救いに到ら無かった者には、皆、既にいずれ救いに到る因縁を遺しておいた」

「これより後、私の諸々の弟子で、(各地あるいは後世に)伝え、広めて、私の道を修行したならば、そこには如来の法身が常にあって滅することはない」

「このことから正に知るべきである。世界は全て無情であって、会う者は必ず離れる定めであることを」

「我が滅度に接して、憂いを抱くことの無いように。世界の姿はこのように(変化し、流転するものである。正に勤め励み、精進して早く解脱を求め、智慧の明かりによって諸々の無智と言う暗闇を消し去れ」

「世界とは、実に危うく、脆いものである。堅牢にして不変なるものなど存在しない。私が、今、ここに入滅を迎えることは、あたかも悪き病を取り除くような物である。この身体、苦しみの世に生を受け続けることは、正に捨てるべき罪悪のものである。ただ仮に名づけて我が身としたものに過ぎぬ。それは老いと病、生まれて死ぬという、苦しみの大海に溺れ、沈んでいるようなものである。どうして智慧ある者で(その苦しみを)除滅することは怨賊を殺すかのようにして歓喜しないでいることがあろうか」

                            Ⅶ 離種種自性清浄無我分


  汝等比丘、常に当に一心に出道を勤求すべし、
  一切世間の動不動の法は皆な是れ敗壊不安の相なり、
  汝等且く止みね、復た語うこと得ること勿れ、
  時将に過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す、
  是れ我が最後の教誨する所なり

「修行者達よ、しばらく止めよ。もはや言葉を発することの無いように。我が時は正に過ぎ去っていく。私は、ここに滅度する。これが我が最後の教諭である」

              【語義の吟味と考察】

釈尊の最後の教えは前回の「大人功徳分八」で終わった。これより後、修行者の為すべきことは「常に一心に諸々の放逸なる心を捨て去り、山間、空沢、樹下や人気無き地、静かな部屋・・何処にあっても、示された教えを心に留め、ただ修行に専念せよ」と「顕示畢竟甚深の功徳」を説かれた。
そして最後に、比丘達にお尋ねになった。

「苦諦・集諦・減諦・道諦の四聖諦について、疑問や分からぬところがあるあであれば質問しなさい。疑問を残すことの無いように」 しかし、誰も声を上げる者はなかった。そこで、全員の気持ちを忖度して阿珸樓馱(アニルッダ)が申し上げた。彼は、釈迦仏の10大弟子の一人で優れた洞察力を持つことで知られており「天眼第一」の別称で呼ばれている。

アニルッダは、「もし、初めて道に入った者も仏陀の説法をお聞きしたことによって、皆が救いを見出しています。それは譬えば暗闇の夜に稲妻が走ったことによって道の所在を知ることが出来たようなものです」と、修行者たちは皆、四聖諦の教えに疑問を残すことなく理解していることをお伝えした。

だが、アニルッダは、最後に「もし既に成すべきことを成し終え、既に苦しみの海を渡越えた者であれば(仏陀のご入滅に際して)ただこのような思いをなすでしょう。【嗚呼、世尊の滅度は何と速やかなことであろうか】と付け加えた。

釈尊は、これを受けて、こう説諭された。
「比丘達よ、悲しみ憂いることなかれ。もし私がこの世に極めて長大な時間を更に生きたとしても、誰でも会う者には必ずその終わりがあるものだ。(因と縁によって)成立下にも関わらず、滅びないということなど、決してありはしないのだ」

そして強調された。
「自らを利益し、他者を利益する教えを全て私は説き尽くし、修行者達は受持している。もし私が久しくこの世に命を留めたとしても、これ以上、説き示して益することなど無いであろう」

「正に(道を示すことによって)救うべき者は、あるいは神々、あるいは人々でも、その者全てを既に救ったのである。未だ(私の示した道によって)救いに到ら無かった者には、皆、既にいずれ救いに到る因縁を遺しておいた」

そして残された最後のお言葉:
「比丘達よ、常に正に一心に勤め励んで出離の道を求めよ。あらゆる世間の動くもの、動かぬものにせよ、全てはいずれ敗北して壊れる不完全なる有り様である」

釈尊ご自身、他の人々と同じく四聖諦の一生を終えられた。


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