12 『日本で一番、長い日』

「吉備野庵爺の問わず語り」(12)

12 『日本で一番、長い日』

 8月15日・・重い日がまた巡ってきた。77回目の「終戦記念日」 1945年8月15日、私は15歳。先日も書いたが、前日の14日に、久しぶりに軍需工場に戻って、ヤスリを手にして弾丸のゲージを作っていた。それまでは、原爆被災で壊滅した広島への救援隊に組み込まれて、負傷者の救援や死体収容に当った。今日このごろと全く同じ。うだるような猛暑の中であった。

 被爆の悲惨さは筆舌の術を超える。猛烈な死臭が焦土の町を蔽っていた。その中で無感動にただ”処理”を急ぐ。そして滾(たぎ)らせた復讐の誓いが疲労をふっ飛ばした。その最中に、耳を疑う「盟邦・ソ連の参戦」 いよいよ南北挟み撃ちの本土決戦・・・と、武者震いしたものだ。

 そして学徒動員で配属されていた軍需工場に戻り、ヤスリを手にして弾丸のゲージ作りに励んでいた。その前日の正午、お昼の休憩時間に私たちは隣組班長の演説に耳を傾けて異常な緊張を感じていた。
 「竹原で新型兵器が完成した。アメリカの特殊爆弾以上の殺傷力を持つ、これまで見たことのない兵器だ。これで一気に反撃に出る」 

 聴いている者すべてが、それを信じた。
 竹原というのは、広島県竹原市のこと。私がすんでいた西条町(現東広島市)に隣接した市で、沖に大久野島という小さな島があって、そこで特殊爆弾が作られている、とのウワサを私たちもかねて耳にしていた。それがついに完成した、と言うのである。終戦後、「毒ガス島」の名前で、その実態が公表されたが、ウワサ通り化学兵器を作っていた。

 翌15日、工場長から、「今日正午にラジオで重大発表があるから全員、集合するように」との通達が出た。誰もが、いよいよ本土決戦、と思った。だが、工場の入り口に置かれた「5球スーパー・ラジオ」の前に集まった私たちが聞いたのは、夢にも思わなかった天皇陛下の”玉音”。それまで聞いたことのない神聖な”荒人神の声”であった。

 それまで小学生たちは”玉音”(現人神のお声)を聞いたら耳がつぶれる、と教えられていた。確かに、その声は、甲高く、語られた言葉もほとんど理解できない。ただ、一箇所、鮮明に聞こえたのは 何故か、低く抑えられた「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ・・」の文句であった。

 そこに居合わせた全員が、この言葉で初めて敗戦を知った。事態は、われわれの予想とはるかにかけ離れたものだった。一体、何が起こったのか? 前日、大声で檄を飛ばしていた隣組班長は下を向いたまま項垂れ、言葉を発しなかった。

 ことの真実を、知ったのは、それから20年以上も経ってから。社会評論家、大宅壮一氏編の実録『日本のいちばん長い日』 で当日の克明な記録が公にされ、それが間もなく岡本喜八監督 橋本忍の脚本で同名の東宝映画になって、初めて国民大衆全てが、細かに真相を知ることが出来たと思う。

 この映画は、昭和20年8月14日正午から8月15日正午までの24時間を、時間を追って、内閣、東部軍、近衛連隊などの動きを再現したものであった。物語は皇居内の御前会議から始まり、ポツダム宣言受諾をめぐる陸軍省と政府との激論、対立。自刃の覚悟をした阿南陸相。

 玉音放送の準備に腐心するNHKと宮内省。徹底抗戦を主張する青年将校たちの玉音盤奪還作戦、反乱軍による首相官邸襲撃…。そして翌15日正午の玉音放送へ。敗戦の日の24時間が時系列に克明に再現されている、私は、既に30歳半ばの新聞記者であったが、その折々の自分の15歳の8月15日を重ね合わせながら追体験した経験がある。

 だが、あれほど「本土決戦、一億玉砕」と徹底抗戦を叩き込まれ、ゲリラ戦を身につける訓練を積み重ねたのに呆気なく、戦備の全てを差し出して無条件降伏とは! いつ迄も心の底に蟠った疑問であった。だが、この映画は、

 天皇を迎えて開かれた第1回御前会議は、8月10日。政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言受諾を決め、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。

 同12日には連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項に[Subject to]とあるのが「隷属か制限の意味か」で、大論争始まり阿南陸相が徹底抗戦を主張し大混乱に陥った、と言う。

 8月14日の特別御前会議での評決は3対3。受諾、徹底抗戦のいずれも結論が出ず、最後に天皇の「聖断」を仰ぐことになり、天皇の強い意志によって、ポツダム宣言受諾が決まり、天皇自らがそれを国民に伝えられた、のが敗戦の玉音の本旨であった、と知った。

 これを見て思ったのは、何とも不思議な天皇の「聖断」。日本人にとって天皇とは何なのか? その前に私にとって天皇は何であったのか? 実に奇妙な気分になる。玉音を聞く直前まで、私は、陛下に忠実な「軍国少年」 天皇陛下の赤子であった。本土決戦を前に「ヘニコソ死ナメ」(陛下の為に命を捧げる) 自分の使命は「陛下のためにこの一命を捧げる」 それを疑わなかった。15歳の決意は、教えられた通り「忠義とは死ぬことと見つけたり」であったのだ。

そこで、当日の私の心境を思い出す。もし、この天皇の「聖断」が無かったら、多分、日本は内乱状態になっていたであろう。当時、15歳だった私たち「軍国少年」の心情は、確実に阿南陸相の徹底抗戦に向いていた。少なくとも前日まで、ほとんどの国民が、内心はともかく、表面上は、それを支持しなければ、自分の居場所は無かった。

ところが、ツルの一声で、阿南陸相が自刃、強硬派の青年将校も、天皇の「聖断」で武器を捨てた。何という”魔力”か。武者震いした昨日の意気込みは何処へやら・・・私も、瞬間に戦意を喪失した。思わず見上げた空。そして隣の友人につぶやきました。「戦争、終わった」 誰もが無言。そして、その日丸一日、何とも言えない虚脱感に襲われたのでした。

とにかく不思議な気分。天皇陛下がこう、と言われれば、即、全国民が服従。当時の日本人、当時の私。ただテンノウヘイカの仰るまま、言われるまま。「戦え」と言われれば「ヘニコソ死ナメ」 命を賭して突き進む。途端に「止めよ」 即、服従。15歳の軍国少年は皆、そうでした。「右向けー右、こんどは左だ!」 なぜ? とは誰も問わぬまま。

国を挙げて、学校教育まで総動員して、国民に刷り込んだ「天皇イデオロギー」のマインド・コントロール。15歳の子どもまで集団狂気に駆り立てた学校教育とマスコミ。誰も逆らうことが出来なかった暗黒の時代の魔力の正体を突き止めたい思いが今でも消えない。

歴史には「もしは無い」と言う。しかし、私には、終生、消しがたいひとつの拘りがある。東京、大阪の2大都市はじめ全国の主要都市は既にB29のじゅうたん爆撃で壊滅的被害を受けて文字通り日本列島焼き野原になっていた。既に戦う力を失っていた7月26日に「ポツダム宣言」勧告であった。

「聖断」は8月14日。なぜ、19日もの時間が必要であったのか? その遅れが、見せしめの、広島・長崎二つの原爆投下とソ連参戦を招いた。もし聖断が10日早かったら・・・・この更なる大悲劇は防げたはずだ。

この全国じゅうたん爆撃で、私たち「軍国少年」が忘れることが出来ない名前は「鬼畜ルメイ」。昭和19年暮れの東京大空襲に始まり、全国の主要中小都市を無差別に襲った焼夷弾による絨緞爆撃は、「ペーハーハウス」(木造住宅)の民家を焼き払い、多くの女性・子ども・老人を虐殺した。私の妻も実家が全焼し、家族が離散したのは、既にご紹介した。

そして最後の止めの原爆、これは私自身が体験した。いずれも「戦意喪失のため」に行われた非武装の民間人を無差別に虐殺したのが「日本列島焦土作戦」 その計画立案・総指揮をとったのは、カーチス・エマーソン・ルメイ。戦争犯罪人として裁かれるべき人物である。

私が、今に至るも理解出来ないのは、こともあろうに日本政府が昭和39年(1964)に、このルメイに国家の最高賞「勲一等旭日大綬章」を授与した事実である。これを後世の人々は忘れてはならない。当時の首相は佐藤栄作氏。この人は、後にノーベル平和賞を得ました。
 
何故だ? 何故だ? ダブルの疑問を未だに私は、持ち続けている。

ともかく私は、戦争を知らない世代の人々に「終戦記念日とは何であったのか?」昨日から今日にかけての24時間、時計の針を77年戻して、『日本のいちばん長い日』 を考えてみてほしい。

ささやかながら、我が15歳のあの日の体験記録をご紹介するのもその誘水のつもりである。とりわけわが子・孫、そして最も愛おしいひ孫世代に戦争体験を語り継ぐためにもっとも大切な要(かなめ)であると信じる。

余談ながら、あの名著『日本の一番長い日』は、2種類ある。私たちは大宅壮一氏編(1967)のものに親しんだが、それは既に絶版となり、今では、1995年6月に発行された半藤一利氏編の文藝春秋版が普及している。

但し、内実を言えば、編著者名は違っているが、実は、大宅壮一氏編(1967)の方は、当時、月刊「文蓼春秋」編集部次長をしていた半藤氏が執筆されたもので、「著名ジャーナリストの名を借りて刊行した」という経緯がある。多作の大宅壮一さんにゴーストライターが付いているとのウワサは当時、マスコミ界では常識であったが、まさか、半藤一利氏が仕掛け人だったとは! 

出版業も商売、いろいろと、裏事情があるようだ。だが、半藤一利氏の戦記物は超一流。77年前に、この日本で何が起こったのか? 是非、この本をご覧になって『日本の一番、長かった日』を学んでいただきたいと願う。

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