義経の天狗伝説に対する江戸時代の知識人の見解
これまで剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素である関東七流・京八流の伝承についての私の個人的見解を述べました。前回からは京八流の伝承の前提として存在する天狗伝説について考察したいと思います。
剣術流派の開祖伝説の中には、「天狗から兵法を習う」という伝承がしばしば見られます。このように、「天狗から兵法(剣術)を習う」という伝承は近世以前の日本において広く存在したものでした。しかし、江戸時代の知識人の中にはこうした伝承を嫌悪し、それ証明しようとする言説がしばしばありました。
例えば、最も有名な義経の天狗伝説については、次のようなものがありました。
以前も取り上げたように、林羅山の『本朝神社考』巻六「僧正谷」では、世間に広まっている鞍馬山の僧正が谷に関する伝承について考証を行っています。
羅山の思想は、総じて儒教的な現世主義・道徳主義、および、一種の合理主義を特徴としています。
しかし、「僧正谷」の項では天狗の首魁として鞍馬山僧正を挙げており、「鞍馬山僧正が住む地」という由来に反対意見を出していません。また、慶長十九年に流行した伊勢踊りと大阪冬の陣、そして比叡山からの不思議な報告と結びつけ、
古より、民の訛音、時の童謡、史の載する所、今亦た奇なるかな。
と評しました。
このように、羅山は必ずしも天狗の存在を否定してはいないようです。
一方で、井沢蟠竜は『広益俗説弁』において、
俗説云、源義経鞍馬にありけるころ、鞍馬の奥に僧正が谷といふ天狗の栖なる故に名つけり。義経夜々此所にゆきて天狗に剣術をまなび、軽捷を得たりといふ。
という俗説について批判的意見を述べました。義経が天狗から剣術を習ったという説は、
「①世を憚ってひそかに師を求め、夜毎剣術を学んだ事を『天狗に習った』と表現した」
または
「②鞍馬寺に居住していた当時、平家を滅ぼして父の仇を討とうという憤気・高慢が胸中に満ちた様を『天狗に剣術を学んだ』と形容した」
のか、いずれかであろうと結論づけました。
毛利家出身であり、甲州流軍学を学んだ小早川能久は、「神武天皇が創始した七軍法」及び「中国から伝来した八陣法」こそが兵法の奥儀であるとの立場に立ち、八陣法の違法を得た鬼一法眼が鞍馬寺の僧侶に剣術を伝授し、鞍馬寺の僧侶から義経に剣術が伝授されのであると述べました。そして、義経が修行の場所として僧正谷を選んだ理由は鞍馬寺の僧侶から鬼一の剣術を習った事実を秘密にするためでしたが、世間の人はそのことを知らなかったため、「義経が天狗から剣術を習った」という噂が広まったのであると主張しました。
これらの主張を受けて、『本朝武芸小伝』の日夏繁高も天狗伝説には否定的な態度をとっており、巻五「刀術」序にて
伊予守義経者、習刀術於鞍馬僧、顕名誉。
(伊予守義経は、刀術を鞍馬僧に習い、名誉を顕らかにす。)
と述べ、義経が剣術を得意としていたと認識しているものの、巻五「大野将監」では小早川能久と井沢蟠龍の主張を引用し、
愚想ふに、当世の武術怪を好み、異成を尊む、古流はあしきとて、自流を建て、其師をかくし、其法を偸て妄偽をなし、愚成人をあさむき、我自得は飯篠・富田も不可及とのゝしり、邪智高慢胸中に充たるそ、実に天狗流といふへし。
と述べており、「天狗から剣術を習った」と自称する輩に対して批判的な態度をとり、
天狗と云は付会の説なるへし。
(『本朝武芸小伝』巻六「瀬戸口備前守」)
と主張します。
このように、江戸時代前期から中期の知識人の間では、義経が剣術を得意としていたことは認めるものの、「義経が天狗から剣術を習った」という伝説は否定する意見が主流になっていきました。
しかし、こうした意見は本当に妥当なものなのでしょうか?義経の天狗伝説はどのように生まれ、どのように広まっていったのでしょうか。そもそも本当に義経は剣術を得意としていたのでしょうか。それを裏付ける歴史的資料は存在するのでしょうか。
次回よりこれらの点について検討してみたいと思います。