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『本朝武芸小伝』に引用された『勢州軍記』について

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。

以前のnoteはこちらをご覧ください。

日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに当たりさまざまな書物を引用しています。それらの書物の概要を数回にかけて確認し、日夏が各書を引用した意図を探りたいと思います。今回は巻五「塚原卜伝」に引用された『勢州軍記』を取り上げます。

『勢州軍記』は、日本の戦国時代の伊勢国の出来事をまとめた軍記物です。全二巻十二節。著者の神戸良政は、伊勢北部の豪族であった神戸具盛の末子高島政光の孫とされています。神戸良政は蒲生氏郷の家臣であった父神戸政房の記録を元に、人々から聞き取った内容をまとめ、寛永十二年(一六三五)から寛永十三年(一六三六)頃に『勢州軍記』を完成させました。

『本朝武芸小伝』には『勢州軍記』が次のように引用されています。

勢州軍記曰、「夫兵法剣術、近来常陸国住人飯篠入道長威斎受天真之伝、立一流。卜伝者、続長威之四伝、尤兼秘術、新復立其流、得名世間也。然卜伝諸国修行、而帰常州、最後之時、欲立其家督。(中略)譲家督曰、『但一太刀、唯授一人也。我伝之於伊勢国司。汝往習之。』遂死畢。其後、塚原彦四郎上勢州、問国司曰、我父相伝之一太刀、欲見其相違也。具教不知謀而見之云々。」
(勢州軍記に曰く、「夫れ兵法剣術は、近来常陸国住人飯篠入道長威斎天真の伝を受け、一流を立つ。卜伝は、長威の四伝を続け、尤も秘術を兼ね、新たに復た其の流を立て、名を世間に得るなり。然るに卜伝諸国修行して、常州に帰り、最後の時、欲立其の家督を立てんと欲す。(中略)家督を譲りて曰く、『但だ一の太刀は、唯授一人なり。我之を伊勢国司に伝う。汝往きて之を習え。』と。遂に死に畢んぬ。其の後、塚原彦四郎勢州に上り、国司に問いて曰く、『我が父相伝の一の太刀あり、其の相違を見んと欲するなり。』と。具教謀を知らずして之を見せると云々。」)

この段は、『勢州軍記』巻下「具教騒動第七」の一部を抜粋したものです。
元来、北畠氏は村上源氏の流れをくむ公家でしたが、鎌倉時代末期の北畠親房は後醍醐天皇の建武の新政を支え、親房の三男北畠顕能が伊勢国司となって以後、北畠氏は伊勢に定着し、伊勢で独自の勢力を築きました。

北畠具教は、享禄元年(一五二八)、第七代当主である北畠晴具の長男として生まれました。天文六年(一五三七)、従五位下侍従に叙任されたのを始めとして順調に官位を昇り、天文二十三年(一五五四)には従三位権中納言に叙任されました。この間の天文二十二年(一五五三)に父晴具の隠居により家督を相続して第八代当主になりました。そして、周辺諸勢力との戦いに勝って支配範囲を拡大し、永禄六年(一五六〇)には北畠氏の最盛期を築きました。

しかし、尾張の織田信長が伊勢に侵攻すると、具教は劣勢となり、支配下の城を次々と落とされ、信長の次男茶筅丸(のちの織田信雄)を養嗣子とすることを条件に和睦します。ところが、天正四年(一五七六)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣の襲撃を受けて、子供や家臣とともに殺害されました。同時に北畠一門の主な者が信雄の居城田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られました。

『勢州軍記』「具教騒動第七」はこの天正四年の事件の顛末を北畠氏の側に立って描いています。『本朝武芸小伝』に引用された『勢州軍記』は、塚原卜伝が飯篠家直の四伝の弟子であること、卜伝が諸国修行の旅を行ったこと、唯授一人の秘伝の技とされる「一の太刀」を伊勢国司北畠具教に伝授したこと、卜伝の実子である塚原彦四郎が具教から「一の太刀」をだまし取ったこと等が記されています。この段は、鹿島新当流の幻の技「一の太刀」に関わるものとして比較的よく知られており、また北畠具教は「剣豪大名」などと呼ばれることもあるようです。しかし、実は『本朝武芸小伝』における『勢州軍記』の引用の仕方は、『勢州軍記』の本来の文脈からはやや外れています。

まず、「具教騒動第七」において、具教は「不知不慮」であると述べられており、具教のことを低く評価しています。

また、『本朝武芸小伝』に引用された文は「具教騒動第七」の「具教兵法事」という節に存在します。ですが、日夏は「具教兵法事」の全文すべてを引用したのではなく、冒頭を省略しています。日高が省略した冒頭部は次の通りです。

此国司為塚原入道卜伝弟子、兵法極一太刀也。雖然不慎用心、而今受此害也。故張良教漢皇立皈一之法為武士之奥儀也。夫兵法剣術、近来常陸国住人(以下略)
(此の国司塚原入道卜伝の弟子と為り、兵法の一の太刀極むるなり也。然りと雖も用心を慎まずして、今に此の害を受くるなり。故に張良漢皇に教うるに皈一の法を立て武士の奥儀と為すなり。夫れ兵法剣術は、近来常陸国住人(以下略))
『続群書類従』第二十一輯ノ上合戦部巻五百九十八『勢州軍記』

『勢州軍記』においても具教が兵法の達人であることは記されています。しかし、なぜ兵法の達人である具教は、旧臣の襲撃を受けてしまったのででしょうか。『勢州軍記』ではその原因を具教が用心を怠った点に求め、そして、張良が「漢皇」に教えたという「皈一の法」こそが武士の奥儀であると主張しています。

「漢皇」とは、中国の漢王朝の初代皇帝劉邦のことであり、張良は劉邦の創業を支えた臣下の一人です。

「皈」は「帰」の異体字です。「帰一」という語の出典は『淮南子』「氾論訓」の

「百川異源、而皆帰於海、百家殊業、而皆務於治」
(百川源を異にし、而して皆海に帰り、百家業を殊にし、而して皆治に務む)

と考えて良いでしょう。『淮南子』原文では、春秋戦国時代の諸子百家は様々な説を唱えたが、それらがいずれも治世を目標としていたことを述べています。ここから転じて、「百川帰海」は人心が集まることの例えに用いられるようになりました。日本において「百川帰海」を「帰(皈)一」と表現する例としては、室町時代の禅僧常庵竜崇の『角虎道人文集』「月海号説」に

「会百川而皈一、之謂海」
(百川を会して一に皈る、之を海と謂う)
『続群書類従』第十三輯ノ上 文筆部、巻三百四十三

があります。

つまり、『勢州軍記』作者は張良が劉邦に授けた「皈一の法」こそが兵法の真の奥儀であり、北畠具教はこの「皈一の法」を知らず、さらに不知不慮、不用心であったために北畠氏の滅亡を招いたと主張しています。このような主張は『勢州軍記』「光秀騒動第九」「光秀謀反事」にも現れています。

(前略)抑信長公雖為勇義之将、依無道徳遂逢逆死。亦不悟皈一之法、常悪不義誅降人、為敵者欲断其根枯其葉也。一度悪之者遂殺之。故朝敵不絶也。水至清則無魚、人至察則無従(ママ)云々。主将唯用勇猛殺人而何治世也、以武威之、以之和則之(ママ)、何不治也。罪在一人罰無道、而不誅其余。兵凶器也。殺人刀・活人剣是也。天下非一人之天下。故其報必皈其君也。其敵必有腹心者也。故天照太神告日本武尊曰、「慎勿懈矣。是兵道之秘法也」。
(前略)抑そも信長公勇義の将たると雖も、道徳無きに依りて遂に逆死に逢う。亦た皈一の法を悟らず、常に不義を悪み降人を誅し、敵たる者は其の根を断ち其の葉を枯らすことを欲するなり。一度之を悪まば遂に之を殺す。故に朝敵絶えざるなり。水の至清なれば則ち魚無く、人の至察なれば則ち徒無しと云々。主将唯だに勇猛殺人を用いて何ぞ世を治めんや、武を以て之を威し、和を以て之を則らば、、何ぞ治まらざらんや。罪は一人に在りて無道を罰し、而して其の余を誅さず。兵は凶器なり。殺人刀・活人剣是れなり。天下は一人の天下に非ず。故に其の報いは必ず其の君に皈るなり。其の敵に必ず腹心たる者有るなり。故に天照太神日本武尊に告げて曰く、「慎んで懈ける勿れ。是れ兵道の秘法なり。」と。

『勢州軍記』も織田信長が勇義の将であることは認めています。しかし、その信長が明智光秀の謀反を招いた原因として道徳が欠けていたことと、「皈一の法」を悟らなかったことを挙げています。具体的には、信長は不義を憎み、投降した敵方の人を殺したことを言います。こうした信長の行動は、潜在的な敵を殺すことで、将来の禍根を断つことにあったといいます。しかし、「水清ければ魚棲まず」ということわざがあるように、このような信長の過酷な処置は人々の反発を招き、世を治めることはできません。中国の古典である『老子』第三十一章に「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已むを得ずしてこれを用うれば、恬惔なるを上となす」とあるように、為政者は武力の行使に抑制的でなければならず、武によって人を従わせると同時に、和を以て貴しとしなければなりません。「皈一の法」に基づき投降者を広く受け入れ、そしていかなる時も慎まなければならない。これこそが柳生新陰流が提唱した殺人刀・活人剣であり、皇祖神天照大神がヤマトタケルに授けた兵法の秘法である――『勢州軍記』はこのように主張しているのです。

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