『本朝武芸小伝』に引用された『神社考』および『俗弁』(1)
関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。
以前のnoteはこちらをご覧ください。
日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに当たりさまざまな書物を引用しています。それらの書物の概要を数回にかけて確認し、日夏が各書を引用した意図を探りたいと思います。今回と次回は巻六「大野将監」に引用された『神社考』・『俗弁』の二書を取り上げます。
『神社考』とは、林羅山の『本朝神社考』のことだと考えられます。
林羅山は江戸時代初期の朱子学者で、諱は信勝、羅山は号です。天正十一年(一五八三)、京都四条新町において生まれ、文禄四年(一五九五)、建仁寺で仏教を学びますが、出家することは拒否し、慶長二年(一五九七)家に戻りました。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句・集注を研究しました。慶長九年(一六〇四)に藤原惺窩と出会い、精神的・学問的に大きく影響を受け、翌慶長十年(一六〇五)に徳川家康に推挙されました。以後、羅山は家康のブレーンとして活躍することになります。
『本朝神社考』は、全国各地の主要な神社百五十三社について、『旧事記』『古事記』『日本書紀』『延喜式』等を始めとする諸書から記述を拾い集め、また古老の言を聞き書きし、祭神・由来・霊験などについて考証したものです。全六巻。上二巻では平安時代後期に確立した「二十二社」という社格に含まれる二十二の神社を考証し、中二巻には各地の有名な諸社を、下二巻には霊異方術の事が記されています。
『本朝武芸小伝』には次の一段が引用されています。
世伝、源牛弱、初名舎那王丸、遁平治之乱、入鞍馬寺。一日到僧正谷、逢異人。(割注 一云、山伏。)異人教牛弱以剣術、且盟曰、「我為舎那王之護神。」其後、時時与異人遇于僧正谷。善習其刺撃之法。牛弱素好軽捷、至此、益精。及十五歳、往奥州。寿永・元暦之際、与平氏合戦、其功居多。文治之始再遊鞍馬山、不復得見異人。牛弱、即源廷尉義経、是也。
(世伝、源牛弱、初名舎那王丸、平治の乱を遁れ、鞍馬寺に入る。一日僧正が谷に到り、異人に逢う。(割注 一に云、山伏なりと。)異人牛弱に教うるに剣術をもってし、且つ盟じて曰く、「我舎那王の護神と為らん」と。其の後、時時異人と僧正が谷に遇う。其の刺撃の法を善く習う。牛弱素より軽捷を好み、此に至り、益ます精たり。十五歳に及び、奥州に往く。寿永・元暦の際、平氏と合戦し、其の功多に居る。文治の始め再び鞍馬山に遊ぶも、復た異人に見えるを得ず。牛弱は、即ち源廷尉義経、是れなり。」)
この段の出典は『本朝神社考』巻六「僧正谷」の条です。この条では、世間に広まっている鞍馬山の僧正が谷に関する伝承について考証を行っています。
日夏が『本朝武芸小伝』に『本朝神社考』のこの条を引用した意図について、結論から言うと、「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説が事実かどうかを検討するためです。日夏は「大野将監」の割注にて
愚想ふに、当世の武術怪を好み、異成を尊む、古流はあしきとて、自流を建て、其師をかくし、其法を偸て妄偽をなし、愚成人をあさむき、我自得は飯篠・富田も不可及とのゝしり、邪智高慢胸中に充たるそ、実に天狗流といふへし。
と述べており、「天狗から剣術を習った」と自称する輩に対して批判的な態度をとっています。そして、「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説が事実ではないことを証明するために、林羅山の『本朝神社考』を引用しているのだと考えられます。しかし、このような引用の仕方は『本朝神社考』の本来の文脈からは逸脱したものです。
まず、『本朝神社考』「僧正谷」冒頭で羅山は
鞍馬山与貴布祢之間有岩谷、名曰僧正谷。
割注 或云、不動明王示現之地也。
(鞍馬山と貴布祢との間に岩谷有り、名づけて僧正谷と曰う。
割注 或ひと云く、不動明王示現の地なり也。)
と、鞍馬山にある僧正が谷の紹介をし、『本朝武芸小伝』に引用された「世伝、源牛弱、初名舎那王丸、」で始まる義経の伝説を記します。
僧正が谷で義経が異人から剣術を習ったというこの言い伝えは、当時広く知られたものでした。義経に剣術を教えたという異人は、一説では山伏であるとも、あるいは天狗であるとも言われていました。この僧正が谷の言い伝えを紹介した羅山は、まず天狗がどのようなものであるかを考証します。
我邦自古称天狗者多矣。皆霊鬼之中其較著者相称曰天狗、是非蚩尤旗星之義也。其類中、鞍馬僧正為巨魁。世之所称、鞍馬山僧正・愛宕山太郎・比良山次郎・伊都奈三郎・富士太郎・上野妙義坊・常陸筑波法印・彦山豊前房・大山伯耆坊・大峰善鬼・金平六・比叡山法性坊・肥後阿闍梨・葛城行者・高間坊・高雄内供奉・如意嶽天狗、此等類甚夥。或為狐、或為童、或為鳩飛行、或為僧、為山伏、出于人間、或為鬼神貌、或為仏菩薩相、時々出現。其説曰、見人福則転為禍、遇世治則復為乱、或発火災、或起闘諍。
(我邦古より天狗を称する者多し。皆霊鬼の中其の較著なる者を相い称して天狗と曰う、是れ蚩尤旗星の義に非ざるなり。其の類中、鞍馬僧正を巨魁と為す。世の称する所の、鞍馬山僧正・愛宕山太郎・比良山次郎・伊都奈三郎・富士太郎・上野妙義坊・常陸筑波法印・彦山豊前房・大山伯耆坊・大峰善鬼・金平六・比叡山法性坊・肥後阿闍梨・葛城行者・高間坊・高雄内供奉・如意嶽天狗、此れ等の類甚だ夥し。或は狐と為り、或は童と為り、或は鳩と為りて飛行し、或は僧と為り、山伏と為り、人間に出で、或は鬼神の貌を為し、或は仏菩薩の相を為し、時々に出現す。其の説に曰く、人の福を見れば則ち転じて禍と為し、世の治に遇えば則ち復た乱を為し、或は火災を発し、或は闘諍を起す。)
もともと「天狗」という語は、中国において凶事を知らせる流星を意味するものでした。『史記』巻二十七「天官書」には、
天狗、状如大奔星、有声、其下止地、類狗。所墮及、望之如火光炎炎衝天。
(天狗、状は大奔星の如く、声有り、其の下地に止り、狗に類す。墮ち及ぶ所、之を望めば火光の炎炎たる如く天を衝く。)
とあり、地表近くまで落下した火球が空中で爆発し大音響を発する様を、咆哮を上げる犬に見立てて「天狗」と呼んだようです。また「天官書」に、
呉楚七国叛逆、彗星数丈、天狗過梁野、及兵起、遂伏尸流血其下。元光・元狩・蚩尤之旗再見、長則半天。
(呉楚七国叛逆するや、彗星数丈、天狗梁野を過り、兵起こるに及び、遂に其の下に伏尸流血す。元光・元狩・蚩尤の旗再び見え、長さは則ち半天なり。)
とあり、天狗は兵乱の前兆と考えられていました。
「蚩尤旗星」も彗星の一種であり、これも兵乱の凶兆と言われていました。『晋書』巻十二「天文中」〈妖星〉に
六曰蚩尤旗、類彗而後曲、象旗。(中略)主伐枉逆、主惑乱。所見之方下有兵、兵大起、不然、有喪。(六に曰く蚩尤旗、彗に類して後曲り、旗を象る。(中略)枉逆を伐つを主り、惑乱を主る。見る方の所の下に兵有らば、兵大起し、然らざれば、喪有り。)
とあります。
羅山は中国の史書に見える天狗と、日本で言う天狗が別物であることを指摘し、比較的著名な霊鬼で、様々な姿に変化して世の中に騒ぎを起こす存在が天狗であると主張しました。そして、鞍馬山僧正以下の有名な天狗の名を挙げます。なお、僧正が谷という地名の由来について、鞍馬山僧正が住むからである、という説もあります。
次に羅山は、天子でありながら天狗となった事例として、崇徳上皇が金色の巨大な鳶となった事、後鳥羽上皇がざんばら髪で長い翼を持つ沙門となった事、後醍醐天皇が高い鼻と鉤爪を持ち、五匹の龍が引く車に乗った事等を挙げ、また僧侶でありながら慢心し怨怒の心を持った者が天狗になった(又沙門之有慢心及怨怒者、多入天狗之中)と述べます。
そして最後に、羅山と同時代の天狗の例として、慶長十九年(甲寅、一六一四)の出来事を挙げます。
慶長甲寅夏、叡山僧侶到駿府、告衆曰、頃、叡山有奇事。覚林坊奴二郎者、一日忽失。経数日帰。人問何之。奴曰、有人、将我去、到伯州大山。途中叱人、人相殺。又挙房揮空、俄失火、若干民屋為灰。已而登筑紫彦山。於是、大山・彦山之山伏相共帰時、人々自愛宕・鞍馬・比良来会。有一僧、自上野国来。座定、鞍馬僧正曰、久無奇怪。東州・西州合戦、今其不遠。愛岩太郎曰、嬴軻如何。叡山次郎曰、東方必勝。其勢既見。言已、各帰本山。(中略)幕下聞而奇之。数日之後、有伊勢躍、庶民飾異服、繋綵絹于竹竿、唱謡而躍。始自伊勢故名。都鄙殆遍。遂及遠州・駿州。時有人云、伊勢太神飛来、飾幣帛于道路。聚覩者如堵。幕下聞而警曰、巫蠱不詳之事、王者所禁也。莫躍人、莫祭邪神。速禁妖巫、莫惑衆。因此、伊勢躍止。後、果有大坂之軍。自古、民之訛音、時之童謡、史之所載、今亦奇哉。
(慶長甲寅夏、叡山僧侶駿府に到り、衆に告げて曰く、頃、叡山に奇事有り。覚林坊の奴二郎なる者、一日忽ち失す。数日を経て帰る。人之の何たるかを問う。奴曰く、人有り、我を将いて去り、伯州大山に到る。途中人を叱れば、人相い殺す。又た房を挙げ空に揮れば、俄に失火し、若干民屋灰と為る。已にして筑紫彦山に登る。是に於いて、大山・彦山の山伏相い共に帰る時、人々愛宕・鞍馬・比良より来会す。一僧有り、上野国より来る。座定まり、鞍馬僧正曰く、久しく奇怪無し。東州・西州合戦、今其れ遠からず、と。愛岩太郎曰く、嬴軻如何せん、と。叡山次郎曰く、東方必ず勝たん。其の勢既に見えり、と。言已り、各おの本山に帰る、と。(中略)幕下聞きて之を奇とす。数日の後、伊勢躍有り、庶民異服を飾り、綵絹を竹竿に繁り、唱謡して躍る。伊勢より始まる故に名づく。都鄙殆んど遍く。遂に遠州・駿州に及ぶ。時に人有りて云く、伊勢太神飛来し、幣帛を道路に飾る、と。聚りて覩る者堵の如し。幕下聞きて警して曰く、巫蠱不詳の事、王者の禁ずる所なり。人に躍らしむ莫れ、邪神を祭らしむ莫れ。速に妖巫を禁じ、衆を惑わす莫れ。此に因りて、伊勢躍止む。後に、果して大坂の軍有り。古より、民の訛音、時の童謡、史の載する所、今亦た奇なるかな。)
慶長十九年夏、比叡山の僧侶が家康の住む駿府に到り、近頃比叡山で起きた不思議な出来事を報告をしました。覚林坊の奴の二郎という者が、ある日突然いなくなり、数日後に帰ってきました。比叡山の者が、何があったのかと二郎に問いただすと、二郎は次のように答えました。異人が二郎を連れ去り、伯耆の大山に至りました。途中異人が人を叱ると、人は殺し合い、異人が空に向かって房を振ると、火災が発生して人家が燃えました。しばらくして筑前の英彦山に登ると、鞍馬山僧正・愛宕山太郎・比良山(比叡山)次郎そして上野妙義坊が集まってきました。そして彼らは、ほどなく東軍と西軍による戦いがあり、必ず東軍が勝つだろうと語り合うと、座を解散し、自分たちの山に帰っていった、という。家康はこの話を不思議なことだと感じました。数日後、伊勢踊りというものが広まりました。庶民が異様な服装をし、竹竿を布で飾り立て、歌いながら踊り歩きました。これは伊勢から始まったため伊勢踊りと名付けたということです。伊勢踊りは都会・田舎の区別なく広まり、遠江・駿河にまで及びました。伊勢太神が飛来して幣帛を道路にまくとある者が言うと、観衆が無数に集まりました。家康はこれを聞くと警戒し、邪神を祭って民衆を惑わしてならないとして伊勢踊りを禁止しました。この年の冬、天狗が予言したように大阪冬の陣が起きました。
羅山の思想は、総じて儒教的な現世主義・道徳主義、および、一種の合理主義を特徴としているとされています。特に際だった主張のひとつに仏教の排斥があり、仏教が彼岸主義に立って現世の人間社会における問題を避け、来世を説いて虚妄を述べると批判し、その道徳無視や仏僧にみえる不道徳・罪悪などを追及しました。
しかし、この「僧正谷」の項では必ずしも天狗の存在を否定はしていません。天狗の首魁として鞍馬山僧正を挙げており、「僧正が谷」という地名が鞍馬山僧正が住む地という由来に反対意見を出していません。また、義経が異人(山伏、天狗)から剣術を習ったことにも特に意見は述べていません。『本朝神社考』は寛永十五年(一六三八)から正保二年(一六四五)の間に成立しました。慶長十九年に伊勢踊りが流行したことは事実であり、また大阪冬の陣も紛れもない史実です。
羅山はこれらの出来事を大阪冬の陣から二十年から三十年たった時代に回顧し、古来の天狗に関する言説と比叡山からの不思議な報告と結びつけ、「古より、民の訛音、時の童謡、史の載する所、今亦た奇なるかな」と評しました。
このように、羅山は天狗という存在に対して否定的な意見は述べていません。そのため、『本朝武芸小伝』における「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説を否定する目的での『本朝神社考』の引用は、『本朝神社考』本来の文脈から逸脱したものだと言えます。