陳氏太極拳図説について
最近縁あって陳氏太極拳を習い始めました。陳氏太極拳の基礎理論を記した書物としては『陳氏太極拳図説』があります。日本でも陳氏太極拳を習得している方は大勢いらっしゃいますが、現状『陳氏太極拳図説』の日本語訳は断片的なものが存在するだけで、全訳はまだ無いようです。特に、陳氏太極拳の基礎理論を述べる巻首の訳は見当たりませんでした。そこで、自分の勉強もかねて巻首を中心に『陳氏太極拳図説』を次回より訳してみようと思います。
『陳氏太極拳図説』は、陳氏太極拳第8代伝人陳鑫(ちん・きん)が著した『太極拳図画講義』に基づき、彼の子孫が整理・修訂・補写したことで成立しました。
陳鑫、字は品三、清の道光29年(1849)に生まれ、中華民国18年(1929)に亡くなりました。陳鑫は幼い頃から聡明で、父親から武術を習うだけではなく勉学にも励み、科挙の受験資格を得て歳貢生になりますが、それ以上の試験には合格できなかったようです。
1908年から1919年にかけて、晩年の陳鑫は先祖伝来の太極拳の精髄を整理し、自身の経験を加えて『太極拳図画講義』4巻を著しました。他に『陳氏家乗』5巻、『太極拳引蒙入路』、『三三六拳譜』、『安愚軒詩文集』等の著作があったようです。
陳鑫の子孫の陳東山によると、『太極拳図画講義』が完成した当時、陳鑫はすでに70歳を過ぎており、また社会が混乱していたため、長らく出版することができませんでした。ある時、ある人物が出版を手伝うと言って『太極拳図画講義』の原稿を受け取り南京に赴きますが、しかし数年経っても約束は果たされず、その上その人物は『太極拳図画講義』の原稿を紛失してしましました。この知らせを聞いた陳鑫はショックで病に臥せってしまい、臨終に際して一族の一人である陳椿元に『陳氏家乗』、『太極拳引蒙入路』、『三三六拳譜』、『安愚軒詩文集』、および『太極拳図画講義』に関連する資料を託し、
と言付けました。
陳椿元は一族の者を率いてそれらを編集し、3年かけて『陳氏太極拳図説』を完成させました。このような経緯から、『陳氏太極拳図説』の著者として陳鑫のみの名を表記するのは正確ではなく、「陳鑫原著、陳椿元等修訂」などと表記するべきでしょう。
『陳氏太極拳図説』が完成すると、当時陳氏太極拳の名人として有名だったの陳子明により中国武術史の開拓者である唐豪に紹介されました。唐豪は『陳氏太極拳図説』に強い関心を持ち、この書を出版するために尽力し、各方面に協力を呼びかけました。そして当時の河南省の代表的な武術家が資金を出して、1933年開封の開明書局から『陳氏太極拳図説』の初版が出版されました。
『陳氏太極拳図説』が出版されると、武術界の人士から高く評価され、「拳壇理論之豊碑、武林修学之経典」と称されました。しかし、開明書局の初版本には、出版協力者の一人である杜元化(字は育万)に関わる問題がありました。
杜元化は陳鑫の父陳仲甡(ちん・ちゅうしん)から陳氏太極拳を学んだ任長春に師事しました。
陳東林によると、陳椿元は河南省国術館その他から資金を得ると、『陳氏太極拳図説』の原稿を開明書局に送りました。そして、河南省国術館から派遣された王諦枢が出版に関わる事項について陳椿元と連絡することになりました。当時開封で太極拳を教えていた杜元化は、『陳氏太極拳図説』の出版計画を知ると、王諦枢に同行して陳椿元と開明書局の間を往来しました。この際杜元化は、陳椿元に対しては杜元化が国術館から派遣された人物であると誤解させ、また開明書局に対しては杜元化が陳椿元と「一定の関係」があると誤解させました。杜元化はこの誤解を利用して、陳鑫の原稿には無かった「杜育万述蒋発受山西師伝歌訣」を『陳氏太極拳図説』の末尾に独断で追加し、『太極拳図画講義』の原稿に含まれ『陳氏太極拳図説』の精髄たる「任脈督脈論・重要穴目」の末に「杜補」の二字を加えて、あたかもこれが杜元化の作であるかのように捏造し、『陳氏太極拳図説』の編集に一切関わっていない王諦枢と自身の名を「訂補者」として修訂者の列に並べました。
初版出版後にこれらの事実を知った陳椿元は、杜元化を厳しく非難しました。杜元化は賠償金を支払い、重版の際に原状に復すことを約束しました。しかし、実際に重版されると、杜元化は陳椿元との約束を反故にし、目次の「師伝歌訣」の四字を「研手法」に変えたのみで、他は改竄されたままでした。
太極拳の普及とともに、中国では高い評価を得ました。しかしその副作用として、多くの出版社が海賊版を印刷し、それが世の中に広く出回ってしまいました。陳東山らはこのような状況を是正して著作権を保護するために、各所を奔走し、いくつかの裁判を経て、『陳氏太極拳図説』の著作権は「原著者」「編輯者」「参訂者」が有することを明確にしました。そして、「参訂者」の子孫である陳東山が2005年に山西科技出版社より『陳氏太極拳図説』を再版しました。
陳東山は2005年の再版の際に、『陳氏太極拳図説』を本来の姿に戻すために、「杜育万述蒋発受山西師伝歌訣」、「杜補」、「訂補者」を削除しました。しかし、読者より杜元化の行為を歴史に記録するために、「杜育万述蒋発受山西師伝歌訣」、「杜補」、「訂補者」を残した方がいい、という意見が陳東山に届きました。この読者の意見を受けて、2007年に発行された第2版では、杜元化が改竄した1933年版がそのまま影印されました。
現在一般に流通しているのは、この山西科技出版本2007年第2版であり、私が所持しているのもこの本です。