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美醜

私が仕事をしている間、2歳児息子は幼稚園の一時保育を利用している。
幼稚園の一時保育は、未就学児を希望時間にあわせて託児が出来、幼稚園の先生が保育をしながらタイミングが合えば在園児と交流したりしているらしい。
息子は年上のお兄ちゃんお姉ちゃんと遊ぶことができる幼稚園が大層気に入っていて、毎朝満面の笑みで「ママ、じゃあね~」と手を振りながら幼稚園に駆けていくのだった。

幼稚園では、息子が大好きなお姉ちゃんがいるらしい。
年長の女の子。
夏休みの間ずっと話には聞いてたが、時間が合わず実際に会ったことがなかった。
それが今週の夏休み明け初のプレ幼稚園(未就学児の子と親が幼稚園で遊べるやつ)で、先生の計らいで無事会うことができた。
可愛い。
可愛すぎる。お人形さんみたいな女の子。
「こんにちは。いつも遊んでくれてありがとうね」
そう声をかけると、ニコニコ照れくさそうにしながらも、何度も教室の入り口に来ては息子とハイタッチしてくれるのだった。

果たして息子がその年長のお姉ちゃんの何が気に入って大好きなのかは私にはわからない。
私には計り知れぬ魅力を感じてのことなのかもしれない。
だけれど、
息子は幼稚園の先生の中では一番若くて可愛い先生が一番好きだし、支援センターでも一番若い綺麗な先生が一番好きだ。
そこで母はやはり思ってしまうわけだ。
容姿なのかなと。


私は幼少期激しく人見知りをする子供だったらしい。
赤子時代は母親以外に抱かれればほぼ必ず泣き喚く。
母親が風呂に入っている間に私を抱っこしていた父親が、あまりに泣き止まないので痺れを切らして泣いている私をビンタする始末。赤子を殴るな、父よ。
だけれど、そんな極度の人見知りを発揮していた私が、
当時住んでいた集落の若手のイケメンで有名だったお兄ちゃんに抱っこされた際は一切泣かなかったそうだ。
赤子の時はさすがに覚えていないけど、物心ついてから『あのおじさんはかっこいいおじさんだ』と思っていたことはハッキリ覚えている。
し、今見掛けてもくっそーかっこいいな!と思いながら車で通りすぎている。


『ルッキズム』について調べてみた。
外見重視主義。美しい者を優遇すること、なのかな。

身体的要素の中でも特に容姿がその対象の魅力を判断する唯一の材料となり、加えてそれが差別的な様相を持ち合わせたとき、それは一般的に「ルッキズム」として認識されている[5]

ルッキズムwikipedia

一般的な仕事で容姿を理由に出世できたりできなかったりするのはおかしいと思うし、仕事でなくても容姿が理由で優遇されたり蔑ろにされたりするべきでは絶対にない。そう思う。そりゃそう。

ただやはり、美しい容姿(と私が感じる人々)に魅力を感じる私は確かに存在している。
私は私が美しいと思う肉体や表情を絵に描きたいと思うし、私が魅力を感じるものは描いていてすごく楽しい。すこぶる楽しい。
美しいものは創作の原動力になる。
なので美しいものを美しいと感じることに罪悪感を感じるのも違う気がする。私は私が美しいと思うものを描きたい。
そもそも何を美しいとして何を醜いと判断するのか。
醜いってなんだ。
人が美しいとか醜いとか感じる基準は人それぞれなので、社会?メディア?がその基準を決めるのは違うと思う。
他の人が醜いと感じても、それを美しいと感じる人もいるだろう。
私が美しいと感じても、醜いと感じる人もいる。
整形とかもそうか。その人の理想の美しいに近づける施術。でも案外身近な人は元の顔の方に魅力を感じるパターンも大いにある。けど、まぁ整形は本人の好きなようにすればいいような気もする。ううん、わからなくなってきたぞ。

ルッキズムのWikipediaによれば、新生児でもより美しい外見の方を好む嗜好があるそうだ。
現在の息子も、幼少期の私も、そういうことなのだろう。
きっと美しいものを美しいと思うということが悪いということではない。もう人間そうやってできてんだな。
私が今できるのは、美しい醜いの個人の判断基準で人を差別するべきではない、ということを、成長した息子に教えることなんだろうか。
親って大変だな。自分でもようわかってないものを子には諭していかねばならんのだな。
子と共に親も学びながら成長していきたいと思うなどしました。

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