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ファッションクリスチャン

クリスマス礼拝の日。教会に並ぶのは、ベンツやBMWといった、車に疎い私でも知っているような高級車ばかり。
空虚だな、と思っていた。

私の両親は自称クリスチャンで、私はミッション系の学校に通わされていた。学校では毎朝礼拝があって、キリストの生誕を祝う聖劇というのをやらされて、イースターとクリスマスの礼拝はとびきり長かった。
何だかよくわからない聖人の紋章が入ったスプーンや、高級なチョコレートが配られ、両親はそれらのアイテムをありがたがっていた。

学校には、電車を乗り継ぎ、1時間かけて通っていた。池袋、朝の通学時間はデパ地下の開店前なので、シャッターが下りている。すえた臭いを放つ人間が、そのシャッターに寄りかかって寝ている。シャッターの向こう側では、彼らの半月分の食費ぐらいの菓子折りが、平気で売り買いされているというのに。
服だって高い物ばかりだ。うちの学校は私服を一つのアピールポイントにしていた。バーバリー、ラルフローレン、皆そういったブランドの子供服を身に着けて通っていた。

特別な礼拝の日には、献金を持って行く。学校では朝封筒を回収されるし、教会では礼拝の途中でカゴみたいなのが回ってきて、それに封筒を入れる。

小学生の時から言語化できていたわけではないが、私はずっと宗教というものに違和感があった。
地域に根ざした教会ではなく、私立一貫校の学院にある教会に通っていたからなのか、その違和感は年々増してしまった。
洗練されたイルミネーションをほどこされた、美しいツリー。荘厳な眺めに罪はなく、純粋にそれを美しいと思っていた時期も確かにあった。

宗教に救われる人もいるのは否定しないし、人間を超えた神秘的な何かが存在しないとも思わない。
けれど、さりげなくも値の張る物を身に着けて集い、歌う聖歌は、心から神を賛美しているのかな。そんな中二病と言われそうな疑問で、私はどんどん心が冷えていった。クリスマスと新年、大学の教会に連れて行かれるたびに思った。こんなの、ただの幸せお披露目会だと。

黙って、どこか然るべき施設に寄付するだけでいいのに。
だから私は、宗教は嫌い。

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