ピースオブケイク と ドクター・デスの遺産の共通点について
※ネタバレ注意 & 暴言・暴論注意につき、読む方を選ぶ内容となっております。
いきなり、本題に入る。
ピースオブケイクは、ラブコメ映画。ドクター・デスは、サスペンス映画と、ジャンルの違う映画である。
この2つの映画に、共通している点は、どちらの映画も、わたしの好きな俳優さんである、綾野剛さんが主演をされている、という点だけではない。
本筋がペラッペラに薄いにも関わらず、見応えがあるという所が、特筆すべき共通点であると、わたしは思っている。
見応えとは、厚み。
厚みを作るのは、おそらくは、演出。
とはいっても、演出がなんたるか、わたしは、よくわかっていない。
また、演出とは、いかなるものかは、おそらく、演出家の数だけ、定義があるのだとおもう。
ここで、高畑勲の話を出そう。
わたしの尊敬する演出家であり、初めてかつ、唯一、注目したことのある演出家が、高畑勲である。
高畑勲のドキュメンタリー動画に、「かぐや姫の物語をつくる」というものがある。DVD化されている。この中で、高畑監督は、どんな演出や監督業をしていたのかというと、
ものすごく細かく、コマ割りを調整したり、色付けや絵のタッチ、声のこと、主題歌のことを、決めていくのだが、
およそ、「決断」などというカッコイイ、切れ味のいい言葉で表せられるような、お仕事ではなかった。
高畑監督が、感じている、ことばにならない、感覚を、
言葉になり切らないまま、口ごもりながら、沈黙をしながら、
なんとか、出すことを試み、
それを受けた、スタッフも悩み、
周りのスタッフと、共に、頭を抱え、途方に暮れるというお仕事である印象を受けた。
そうしているうちに、
深みや厚み、生きている人間共や草や虫や獣の息遣い、生活感、手仕事、ライフ、葛藤、情緒が、多次元的に、触手をのばして、一系統でない広がりを持った、説明できない作品になっていくような、印象を受けた。
この世には、説明できるものと、できないものとがある。
見えるものと、見えないものが、ある。
某「きみの◯臓がなんちゃら」みたいな、美しいストーリーで、美しい背景、きれいな演技、そんな人間いねーよと言わずにいられないほど、分かりやすい心情の動きしかしない人間を描く、映画を、
わたしは、ペラッペラだと思う。
全てが、ぺらっぺら。脚本も演出も、見応えなし。
見た目に、きれいな、物語に、興味が無いのだ。涙腺を刺激しに来るストーリーには、反吐が出る。
さらに、演出まで、美しいだけなんて。
すべてが整合性がとれているものは、ほんとうに、つまらない。
矛盾する事柄が、同居することなんて、当たり前のこと。
説明できないことは、起こるものである。
醜さや狡猾さは、すべての人間の中に存在している。
問題は、いつだって、問題がなんであるか、わからないから、問題である。
言葉にできることと、できないこと
見えるものと、見えないものの間を、行き来する存在が人間である。
話は戻るが、映画では、演出の試行錯誤の過程で、厚みや奥行きが出てくるような気がしてならない。
先に述べた「ピース・オブ・ケイク」や「ドクター・デスの遺産」は、そういった演出の奥行きがあったように感じた。
ストーリーに左右されない、映画の厚み。
それが、演出なのか、と。