モノを書く道具(2) ~1990年代の「駄文書き散らし生活」
前稿(モノを書く道具(1) ~僕の「駄文書き散らし生活」の変遷)で、1980年代から1990年代初頭までの「モノを書く環境・道具」について書いたので、それ以降の話、つまり1990年代半ば以降の話を書こう。およそ30年前の話である。
■ガリ版から活版印刷へ
ところで、還暦を超えている僕の世代は、商業印刷の主流が活版だった時代を知っている。活字を拾って版を組む現場を見ているし、4号、5号という活字サイズや、組版時の文字間隔調整に使う「クワタ(quad)」や「スペース(space)」を知っている。
いや活版印刷以前に、僕は「鉄筆とガリ版」(謄写版印刷)で印刷物を作っていた世代でもある(若い人には「プリントごっこ」の原理と言えばわかるだろうか…)。1960年代から1970年代初頭頃には、ガリ版で作った詩集や同人誌、機関紙などを制作している個人や団体が多くあり、僕も高校時代に文集やアジビラを作った。さらにこの頃は、安価になった「青焼きコピー(ジアゾ式コピー)」も、小規模な印刷物制作に一定の役割を果たした。そして1973年に大学に入学してすぐに顔を出した文芸系サークルの部室に、当時非常に高価だった「和文タイプ」が置いてあり、驚いた記憶もある。
ちなみに謄写版印刷技術は、1980年代になって謄写版をデジタル化した「デジタル印刷機」(リソグラフ)が商品化されて、今も生き残っている。
商業印刷の主流が活版印刷からオフセット印刷に移り、手動写植から電算写植へ移行し、さらにオフセット印刷とDTPシステムの統合が進み、デジタルデータをダイレクトにオフセット印刷用の版に出力するCTPシステムが実用化されるなど、商業印刷と組版の発展・変遷のプロセスを、僕は目の当たりに見てきた。さらに現在は、電子出版(EPUB制作)の仕事もしている。中でもMacintoshを使ったDTPシステムの普及初期と現在のEPUB制作は、仕事として関与した。
この商業印刷と組版の変化が、僕にとっての「モノを書く道具」に大きな影響を与えてきた。いや僕に限らず、商業印刷物向けの原稿を書く全ての人に影響を与えた。
■テキストエディタを利用し始めた90年代
単行本や雑誌向けの原稿は、手書きの原稿用紙に始まり、ワープロで作成したデータをプリントアウトして入稿していた時代があって、さらにデータで入稿する時代へと変わってきた。前稿で書いたように、ワープロを使い始めた1980年代半ば頃は、まだワープロで書いた原稿をプリンタで出力して入稿していた。1980年代~90年代半ば頃までは、ワープロ画面で出来る限り紙面のレイアウトに合わせて整形したものを出力して入稿していた。その際、技術書向けの原稿などで「図」を描く際に適当なソフトがなく、80年代の後半に発売されたジャストシステムの「花子」を使ったりもしたが、複雑な図を描くのは難しかった。結果、図の部分だけを手書きにすることが多かった。
デジタルデータによる入稿が一般化したのはかなり遅い時期で、90年代の終わり頃になってからだ。90年代末頃の入稿データが今も残っているが、テキストデータ(.txt)で入稿していた。また、この頃から技術書向けの原稿の作図に「paintshop」を使ったり簡易CADソフト(Jw_cad)で図版を描いたりしていたので、そのデータも残っている。
そして、この「テキストデータによる入稿」の時代を契機に、文章作成作業の多くをワープロではなく、より軽快に文章を作成・入力できるテキストエディタで行うようになった。特にネット上で公開することを目的とした駄文書きには、ほとんどワープロを使わなくなった。1980年代に最初に使い始めたテキストエディタは、ビレッジセンターから出たMS-DOS用の「VZ EDITOR」で、Winndows時代になってからは同じビレッジセンターの「WZ EDITOR」に移行した。「WZ EDITOR」はマクロが使えるため、禁則処理用のマクロなどを加えることで、ワープロに近い感覚で文章作成が可能で、2000年代に入っても長く使っていた。
先に「テキストデータによる入稿時代を契機に、文章作成にテキストエディタを使い始めた」…と書いた。1990年代後半のことだ。ちょうどこの時期に、文書作成のツールとしてテキストエディタを使い始めたことについては、大きく2つの理由、必然性があった。
ひとつは、先に書いたテキストデータによる入稿を可能にしたDTPの普及だ。例えば現在DTPの主流となっているAdobe「InDesign」を使ってみればわかる(2000年代半ばまではQuarkXPressが主流だった)。確かにInDesignでは、Wordファイルからテキスト、表、スタイルのデータをそのまま読み込むことができる。しかし、Wordでフォント、ボールドやイタリックなどの字体、行間や字詰め、改行位置などを細かく指定して作ったデータが、そのままInDesignのデータとして完璧に反映されるわけではない。結局はInDesignで組版データを作るデザイナーが、テキストデータをベースにInDesignの機能を使って組版作業をすることになる。
僕は、1980年代半ばからワープロ専用機、そして「松」や「一太郎」、そして「Word」などPC用のワープロソフトを使ってきたが、あくまでそれは「手書きよりもワープロの方が文書作成が簡単」という理由による。ワープロソフトの登場によって文章の書き方・作り方が大きく変わったし、キーボード入力は手書きよりもはるかに効率が良かった。だからこそ、モノを書く道具としてのワープロソフトに飛びついた。一方でワープロソフトが作り出す「文章データ」は、事実上そのソフトでしか使えない「固有のデータ」である。互換性がない。つまり文字情報以外に、ある種の組版データに相当する「余計なモノ」がたくさん含まれている。ワープロソフトで出来ることが増える程、要するにワープロソフトの機能が高度化すればするほど、そして次々とフィーチャされる多彩な機能を使えば使うほど、商標印刷で行う組版作業とはデータの互換性の面で乖離していくことになる。ワープロソフトで文章を書いて、それをテキストデータに出力するぐらいなら、最初からテキストエディタを使った方が早い。こうした「ワープロのデメリット」がはっきりし始めたのが、1990年代の後半である。
そして、文章作成にテキストエディタを利用し始めたもうひとつの理由が、この1990年代の後半という時期に進んだインターネットの普及とそのインターネット上で表示・公開することを目的とした個人メディア、ホームページの登場である。
あらためて書くほどのことではないが、文章や図表、写真等をネット上で表示するのは「ブラウザ(Webブラウザ)」の役割である。ブラウザはWebサーバーにあるファイルデータを指定されたレイアウトで表示するが、ブラウザに表示させるためのデータ、ここでは「文章(テキスト)」に限定すれば、それは「HTML」というハイパーテキスト(HyperText)を記述するためのマークアップ言語で書かれる。ブラウザはサーバー内のHTMLを読み込んで解釈し、ブラウザの画面に描画している。このHTML、最近ではワープロソフトやDTPソフトでもHTML出力が可能だが、やはりワープロ等が生成するHTMLにはWeb上では無効な書式指定などに使われる「余計なモノ」がたくさん含まれている。
今でこそこの「note」をはじめ、bloggerやTumblrなどのブログツールにテキストを直接書き込んで入力し、ツール上で書式やレイアウトを指定するだけで、好きなようにWebサイトを作り、表示できるが、90年代はまだ全てが手作業だった。
自分でHTMLを書いていた時代はむろん、後に(2000年代半ば頃)よく使ったブログ用のCMSプラットフォームMovable Typeなどでブログやホームページを作ろうと思うと、テキストデータをベースにHTMLのタグを打ち込む作業は必須だった。いや、厳密に言えば、現行のbloggerやTumblrだって、テンプレートを外れてちょっと高度で複雑な表示をしようと思うと、結局はHTMLタグを書かなければならない。つまり、Web上で表示される文章「テキストデータ」をベースにした方が、作業は手っ取り早い。だから1990年代の後半以降、インターネット上で表現する文章を書くためには、ワープロソフトではなく最初からテキストエディタを使った方が合理的だったのである。
実は全く同じことは、現在主流のEPUB制作(電子出版)作業でも言える。EPUBの実体は、XML、XHTML/HTML/CSSファイルなどをまとめてZIPで圧縮し、.epubという拡張子を付けたものだ。要するにWebブラウザ表示用のデータと同じものだ。最近のワープロソフトは、EPUB出力機能も備えている。DTPソフトのInDesignは、そのまま使ってもほぼ実用に耐えるEPUB出力をしてくれる。それでもなお、ちょっと凝った電子書籍レイアウトをするためには、手作業でHTMLやCSSを組んでいく必要があり、ここでもワープロソフトではなく最初からテキストエディタで作った文章を素材にした方が合理的だ
最後に、文章の作成に適した高機能のテキストエディタの歴史にも触れていこう。先に触れた「VZ EDITOR」の話だ。以下はwikipediaから引用する。「…MS-DOS用テキストエディタであるVZ EDITORは、1987年にPCワールド・ジャパンからPC-9800シリーズ用にEZ Editor(EZ9801)として発売され、1989年にこれを改良したバージョンがビレッジセンターからVZ Editorとして発売された。軽快な動作、スムース・スクロール、ファイルマネージャ機能、コマンドライン拡張(TSR)、高度なカスタマイズ、マクロ自動処理が特徴だった。当時のMS-DOS環境のテキストエディタは、フリーウェアやシェアウェアにはPSEのような簡易なもの以外にはほとんど存在していなかった。市販品であるMIFES(メガソフト)やFINALは数万円の価格設定であった。その中でVZ Editorは9800円という安価で発売した…」。
■個人メディアとしての「ホームページ」が誕生した頃
前稿(1)で書いたように、インターネットが本格的に普及するのは、Windows95が登場する1995年以降だ。僕は、1993年にIIJが個人向け接続サービスを開始した次の年、1994年の秋に「リムネット」と契約して会社と個人でインターネットに接続した。パソコンはDOS/V機(コンパック)でOSはWindows3.1だった。TCP/IPソフトが必要だった。ブラウザはまだInternet ExplorerもNetscapeもなく(Netscapeはあったかもしれない)、Chameleon(カメレオン)を使った。MosaicかChameleonぐらいしか選択肢がなかったと記憶している。エプソンの2400bpsモデムでダイヤルアップ接続する形だ。会社ではMacintoshでもインターネットに接続した。
当時、インターネットに接続する手段として主流だった(…とうよりも事実上この方法しかなかった)のは「ダイヤルアップ接続」だ。プロバイダのアクセスポイント)にダイヤルし、電話回線経由でインターネットに接続するのだが、常時接続が当たり前の現在の状況から見れば、不便極まりないものだった。僕の会社では、1997年頃にOCNの安い専用線を導入した。確か128kbpsで、安いと言っても月額5万円程度だったと思う。固定IPが16個ついていたので、社内の主要なパソコンに固定IPを割り当てていた。1998年頃には「社内専用のWebカメラ」を設置していた。公開型のWebカメラの走りだったと思う。使ったWebカメラは、出張で行ったシアトルで買ってきたものだ。
そして自宅では、高価な専用線を引くわけにもいかずダイヤルアップである。個人のネット接続環境では、ダイヤルアップ時代が90年代を通して長く続いた。その後、常時接続ではないにせよ、1999年にフレッツ・ISDN、2000年代初めにADSLサービス(ソフトバンクがタダでモデムを配布しまくった)が提供されるようになって、個人のネット接続環境は大きく改善した。とは言えフレッツISDNが32kbps、現在当たり前になった個人環境での常時接続、しかもGbpsなんて高速接続は、まざに夢のような世界である。また、1995年頃、会社でJPドメインを取得したが、その時取ったアルファベット3桁の〇〇〇.jpというドメインは、今じゃ絶対に取れないだろう。
さて、個人でのホームぺージの作成が始まったのもこの頃からである。僕が個人でホームページを作ろうと思い立った1996年初め頃の時点で、ホームページ(Webサイト)を作るには、まずHTMLを覚える必要があった。そしてFTP(ファイル転送)ソフトも必要で、当時は「Fetch」ぐらいしかなかった。モデムは2400bpsで、ブラウザは「NCSA Mosaic」(FTPクライアント機能も付いていた)だ。文字だけの簡単なホームページが表示された時にはけっこううれしかった。1996年初頭の時点では、日本人で個人のホームページを作っていた人間は、おそらく千人もいなかったろう。そして僕は、まずは自分の会社のホームページを開設し、さらに個人でインターネット上で日記のようなエッセイ、時事ニュースにコメントするようなサイトを公開しようと考えていた。この年「HyperDiary」がスタートするが、僕はあえてそれには参加せず、試行錯誤しながらも個人サイトの作成にこだわった。翌1996年にはHyperDiaryは結構話題になり、日記を書くユーザーが一気に増えた。僕がHTMLのタグをほぼ完全に覚えて、日記・エッセイ系ののサイトを立ち上げたのは、結局1997年になってからだ。その頃は、ブラウザはNetscape Navigatorがあったし、個人サイトも急速に増えていた頃だ。いずれにしても、インターネット上で好きなことを書いて広く公開できる「個人メディア」が生まれ、不特定多数の人とのコミュニケーションも可能になった。まだSNSなど存在しない時代だったが、インターネット人口・市場は、90年代後半から
信じられないほど急速に拡大していった。僕自身も、ネット上で文章を公開したり意見を交わしたりする場を、パソコン通信サービスからインターネットへと徐々に移行していった。
■90年代に起きたパソコン市場の激変
ここからは、「モノを書く道具」としてのハードウェア、すなわちパソコン市場の変遷話である。
80年代後半から90年代初頭頃にはパソコンの国内市場でPC-9800が圧倒的なシェア誇っていたが、90年代に入るとすぐに日本語表示をソフトウェアで実現したPC/AT互換機が登場した。日本IBMが1990年に発売した「PS/55シリーズ」だ。これが最初の「DOS/V」機である。1991年3月にDOS/Vを標準化・推進するOADGが設立され、翌1992年頃からPC-9800シリーズを展開するNECを除く国内パソコンメーカーの大半がOADGに参加して一気にDOS/V機を発売した。その後DOS/V機の市場は急速に拡大し、一方でほぼ国内市場を独占していたPC-9800のシェアは急激に落ちることになった。PC-9800のシェアが50%を切ったのは、1995~6年頃だったと思う。
僕は会社でも個人でも、比較的早い段階でPC-9800を完全に捨てた。ワープロや表計算、メールやクライアントとのデータのやり取り、経理業務、そしてコーディング作業など日常業務に使うパソコンの一部には1993年頃からDOS/V機を導入し始め(80年代にAXパソコンも使っていたが…)、さらに一時期はDOS/V機とPC-9800の両者でWindows3.0を使うなどしていたが、Windows95が発売された1995年の段階では日常業務に使うパソコンは100%、DOS/V機に移行した。同時にDOS環境を一掃して、DTP用途やソフトウェア開発で使うMacintosh以外は全てWindows機とした。
国内市場でDOS/V機普及の原動力となったのは、国内メーカー製品ではなく海外メーカーの低価格パソコンだった。まずはコンパック、そしてパッカードベルやゲートウェイなどが低価格のパソコンを販売し、ユーザーは飛びついた。中でも「白黒の牛柄の箱」のゲートウェイは1990年代後半のパソコン市場を席捲、僕の会社でも10台以上は購入しただろう。
DOS/V機の普及は、ビジネスの上でも個人的な面でも画期的なことだった。まずパソコンの価格が一気に安くなった。そして多くのメーカーから多様なパソコンが製品化され、選択肢が増えた。またメーカーが異なるパソコン同士で完全な互換性が保たれ、パーツも共通化された。僕の周囲だけでなく、個人でもビジネスでも、パソコンを必要とする全てのユーザーが、80年代半ばから10年以上続いた「PC-9800の呪縛」から逃れることができたのである。確かにPC-9800でWindowsという選択肢もあったが、もう使う気にはなれなかった。
そして「モノを書く道具」としてのパソコンという視点で見ても、PC-9800よりDOS/V機の方が優れていた。登場時の仕様ですら、単純に画面表示が640×400ドットから640×480ドットへと20%も広くなったことだけでも、実に大きなメリットだった。さらにDOS/V機では、拡張画面表示を可能にする「V-Text」が普及し、1993~94年頃にはDOS環境でSVGA(800×600ドット)表示が実現した。そしてWindowsの導入で、晴れてXGA(1024×768ドット)の解像度を日常作業で使えるようになった。
そしてDOS/V機の普及は、1996年頃から始まった「自作パソコン」の時代を招くことになる。先に触れたようにDOS/V機はOADGによって規格が標準化されており、内部で周辺機器を接続するバスを含めインターフェースが共通化されていたこともあって、パーツの選択肢が大きく広がった。1995年あたりから秋葉原には次々とパーツショップが開業し、パソコンを自作するユーザーが急激に増えた。ケース、マザーボード、CPU、メモリ、HDD、FDD(当時は必要だった)、ビデオカード…、たったそれだけの部品を買えば、ドライバーだけで30分でパソコンが出来た。僕も自作パソコンにはまった一人だ。1997年頃には、たまたま自社のスタッフが自作パソコン雑誌「PC-DIY」(1997年創刊)のライターをやっていたり、自社で「PC FreeCOM」という秋葉原情報誌の編集を受託してたことなどもあって、自作PCやパーツの最新情報を得ることができ、社内や個人で使うPCを数多く自作した。特にAMDのK-6が登場した頃になると、市販の低価格PCよりも高性能の自作PCを安価に作れるようになった。社内のPCも半分以上が自作機になり、個人のPCも自作機に変わった。
■モバイルパソコン(ノートPC)の登場
前稿(1)で「ワープロ(テキストエディタも含む)を使うと手書きに戻れなくなる」と書いた。当たり前の話だが、ペンで文字を書いて原稿用紙の升目を埋めていくのと、ワープロを使って書くのとでは、文章の書き方が全く異なる。ペンと原稿用紙で書く場合は、あらかじめ頭の中で起承転結を含む文章全体の流れを組み立て、冒頭から順序だてて書いていく。一方でワープロを使って書く場合は、思いつくセンテンスや文章を適当に書き出しておき、後から削ったり、書き足したり、移動してつなげたりしながら文章全体を構成していく。ワープロを、一種のアイデアプロセッサとして使う。カット&ペーストやコピーを自由に使い、さらに複数の文書を自由に結合することで、長文のライティングが大幅に楽になった。…というよりも、現在ではこうした書き方でしか文章を作成出来ない。むろんワープロやテキストエディタでこんな風に文章を書くためには、画面表示がある程度大きい、つまり一画面に表示できる文字数が多いことが前提だ。また機能面でも、文章の切り出しと移動が簡単に、そして直感的操作で出来てこその話である。
前稿で書いたエプソン「Word Bank note2」のように5行表示といった小さな画面で書く場合は、従来の手書きのように、あらかじめ頭の中で起承転結を含む文章全体の流れを組み立て、冒頭から順序だてて書いていく必要があった。1980年代半ばからデスクトップPC上では、既に「ワープロの機能に見合った書き方」をしていた僕だが、モバイル環境ではまだ「手書き流」で文章を作成せざるを得なかったのが、1990年代初頭までの時期だ。当時のデスクトップ環境は、PC-9800の場合640×400ドット、これは概ね40字×21行、約800字表示に相当する。重量が1Kg台前半のモバイル端末で80年代末のデスクトップ環境と同等、またはそれ以上の画面表示、そして処理速度が実現したのは、DOS/V機とWindows環境が普及した1990年代の終わり頃になってからであった。
Windows登場に前後して、「持ち歩ける小型PC」つまりモバイルPCが何種か製品化され、主にマニアが使っていた。この手の小型PCで、まず思い出すのは1993年に米ヒューレット・パッカードが発売した世界最小のIBM-XT互換機「HP100LX」だ。このHP100LXはマニアの手で日本語化(通称「DOS/C」化)されてパソコン通信で広まったが、日本語化手順はかなり面倒だった。1996年に後継機「HP200LX」(MS-DOS V5.0)が発売された時には、その素晴らしい完成度に魅せられて僕も購入した。さらにこのジャンルの製品としては、1995年にIBMが発売した「PalmTop PC110」も記憶に残る。
しかし同じ1996年に、東芝からWindows 95が動作する「ミニノート」PC、「Libretto 20」(リブレット)が発売され、多くの人がその斬新なコンセプトに衝撃を受けた。本体はVHSビデオテープとほぼ同じサイズで、CPUにAMDのAm5x86 75MHzを採用し640×480ドットの6.1インチTFT液晶を搭載、270MBのHDD、そして親指操作のスティック「リブポイント」を装備していた。DOS機のHP200LXとは異なり、そのままWindowsソフトが何でも使えて、ネット接続も簡単、夢のような「超小型PC」だった。確かにHP200LXと比較すると重くて大きいが、それでもHP200LXがあくまで「マニア向け」のPCであったのと比較すれば、Libretto 20は誰でも使えるミニPCだ。当時のパソコン好きの多くがこのマシンに熱狂した。Librettoは、30、50、60、70と進化し続け、Libretto 100でフルモデルチェンジを果たし、ある種の完成形となった。1998年3月に発表されたLibretto 100は、液晶ディスプレイが7.1型と大きくなり、画面解像度も800×480ドットと従来機の640×480ドットから大幅に拡大した。僕はこのLibretto 100を購入した。ただし、大容量バッテリー搭載時の重量は約1kgとなり、当時登場し始めたB5ファイルサイズのサブノート機とあまり変わらなくなった。僕はこのLibretto 100に、出たばかりのWindows98をインストールして(直後にWindows98プリンストール機も発売された)持ち歩いていた。国内外の出張にも必ず持って行った。出始めたばかりのB5サブノート機よりもバッテリー駆動時間が長く、メールやデータのやり取りには便利だったが、キーボードが狭いこともあって長文を書く道具ではなかった。要するに、面白くて役立つ小型PCだったが、けっして「モノを書く道具」ではなかった。少なくとも企画書の作成や長文の入力に向いてはいなかった。
ノートPC、特に2kg以下のサブノートPC登場については、1990年代半ばから、東芝、日本IBMなどいくつかのメーカーから製品化が試みられた。当時の状況や細かい経緯は省くが、現実問題として、デスクトップPCとほぼ同等の機能を持つWindowsノートPCが登場したのは、1997年以降のことになる。
1997年10月にソニーが「PCG-505(バイオノート505)」を発売した。B5ファイルサイズで本体重量およそ1.35 kgだ。続いて東芝が翌年に、同じB5ファイルサイズの薄型ノートパソコン「DynaBook SS 3000」を発売した。本体重量が約1.2 kgで本体の厚みが19.8 mmと薄い。いずれもWindows95(出荷時期によってWindows98)を標準搭載し、800×600ドットのTFTカラー液晶と1~2GBのHDDを装備していた。このあたりのマシンが登場したことで、やっと現在のノートPCに連なる機能を備えた「常時可搬型執筆道具」が手に入るようになったわけだ。
個人的には、サブノートPC は90年代末からずっとIBMのThinkpadシリーズを愛用してきた。1998年にThinkpad 235を購入してキーボードタッチがとても馴染んだので、翌年に発売されたThinkpad 240を続けて購入した。Thinkpad 240は途中でもう1台買い足して90年代半ば近くまで使い、国内外の出張や個人旅行には必ず持って行った。その後IBMからLenovoに変わった後にThinkpad X22(これは今思っても名機だ)を購入して90年代後半まで使い続けた。こうして僕は、80年代半ばから探し求めてきた「いつでもどこでも駄文を書き散らすことができる環境」を、15年越しに手に入れた。
またしてもだらだらと長くなったので、本稿はここで終えるが、本稿で商業印刷の変遷について触れたので、「コンピュータ上での日本語処理」について、自分が関わってきたことをちょっと書きたくなった。次稿で80年代以降の日本語処理環境の変遷について書こうと思う。文字コードやアウトラインフォントの歴史についてだ。
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