つらい会話、ずっと誰かのターン。
こんにちは。久しぶりの投稿です。
改めて、私はこんな人物です。
今日は、私的コミュニケーションの悩みを整理します。
■会話後にモヤモヤした新年。
楽しかった会話とそうじゃない会話について、頻繁にちがいを考える。
大体は欲しかった会話にならなかったときにモヤモヤして考えるのだ。
例えば、今回の会話。年明けまもなくのこと。
新年だし、目標でも決めようと日記を読み返していた。
そこで、自分の仕事への熱量と現在とのギャップについ切なさを感じてしまった。ちょっと落ち込んで、気持ちを共有しスッキリさせてもらうために家族に話してみた。
家族はこの一言を聞くや否や、当時と今の違いなど原因分析なことを話し、現在の私にもそういう場があれば違うんじゃないかというアドバイス?意見を伝えてきた。
そしてそこから後は、いつも仕事上の自分だったらこうしてるよ的な話にうつるのだ。
会話後、モヤモヤした。
◇
うーん。モヤモヤを細かく紐解いてみる。
そもそも私が発話した目的は「気持ちをそのまま聞いてほしい」というところにある。
でも実際は、エピソードトーク的にテーマを与えただけで、あっという間に語り手が相手に移ってしまったのだった。
A:「私は」こう感じてたんだけどね…
B:なるほど「私は」こうするといいと思う!
A:(いや、アドバイスは求めてないんだよなあ)
こんな具合である。
■会話の主語が誰になっているか。
あーそうか、わたし、もっと「私」を掘り下げてほしいのかもしれない。
いろんな角度で問いかけてもらって、わたしの気持ちを引き出して欲しいんだなって。
会話の主語を「私」にして欲しいんだなとも思う。
みたいな。
これ、きっと普通の何気ない会話に求めるには高度な要求だし、お願いして会話がスタートしているわけでもないから、けっこう自分本位な考え方だ。
まあ、これが正しいかどうかは一旦置いておこう。
今は自己分析に終始してみる。
◇
とにかく、私は私への問いが欲しいのだと気づいた。
わたしへの眼差しが欲しいのだ、と。
わたしにあなたの何かをぶつけられるのではない。
たとえばそれは意見かもしれない。
たとえば知識を教えようとすることかもしれない。
でも本当はそうじゃなくて、もっと私へ関心を向けて欲しいのだ。関心を向けるとは、わたしについて問いかけるということなのだ。
それも説教するために原因を詰められるとかではなく、わたし自身の気持ちや感情や価値観や考えに眼差しを向けて欲しいのだ。
◇
問いが好きだ。答えを押し付けられるのは苦手だ。
自分にとって、コミュニケーションで心地よいものの多くは、出来事や気持ちの表明について、相手が評価を下さず、問いかけてくれるもの。もしくは具体化するように傾聴してくれるもの。
究極的には、こういうコミュニケーションがあれば、わたしの意見や気持ちに肯定がなくてもいいのだと思う。
「なるほどあなたはそう感じてるんだね。私はあんまり感じたことはなかったけど大変だったね」
こんな具合で、肯定や共感はなくてもいい。
でも今の自分の状況を誰かに理解してほしいのだ、きっと。
■「世界音痴」な私の今後はいかに。
詩人・穂村弘さんの『世界音痴』にかなり共感した私。
世の中の大人たちは皆、問題なく支障なく、至って自然にコミュニケーションしているように見える。私もそんな自然な輪の中で自然体でいる難しさを感じる「世界音痴」のようだ。
会話ひとつとっても、ちょっとしたことで引っかかっては、こうして文字にして整理する。
これはこれで個性なのかもしれないけれど。
ここ数年、かなりコミュニケーションや人間関係のことを考えることが増えた。コミュニケーションにまつわるエッセイでも書いてみようかな。
◇
取り留めないですが、今日はこの辺りで。
今年もよろしくお願いします。
ここまで記事を読んでくださり、ありがとうございました😊
共感した方、興味がわいた方はぜひスキやフォローをお願いします。
◇ひすとりが書いた、ほかのエッセイや読書ノートはこちら↓
< 自己紹介 「7つの習慣と教師とわたし」>
◇ひすとりの音声配信「ひすとりの放課後話」
今回の記事の内容をゆる雑談しています。
放送でご紹介するお便りについて📮
この番組は、みなさまからのおたよりを募集しています。コメント・レターの他に、下記のリンクからアンケートフォームに入力できます✉️
サポートは美味しいおやつとコーヒーで心をみたすことに使わせていただきます☕️