楽しいは、忘れがち
久しぶりにある先生と話して、胸襟を開くことに緊張した。彼のいまを知らないことに、彼にどう思われるのか、という気持ちが働いたのだろうか。
自分の中では激動の3ヶ月だった。それでもなんだか、それすらも、まっいっかとどこかで感じながら日々を消費している自分がいることに、よく考えるとびっくりする。
学生のときは、こうでなければいけないという見えない型に縛られていて、そのおかげで得た力と逆に見えなかった景色がたくさんある。
どうなってしまうのかわからない不安で眠れなかった私は、いま。まっいっか、で過ごせている。それこそが、学校に勤務して結婚するまでの5年で得た私自身なんだと思う。
一方で、日々の消費で幸せに感じる私は、心の奥を隠す術を習得した。本当はこういう風でありたい、この漠然とした夢を追いかけていたら楽しい、などの心の奥の気持ちである。
そして、思い出したように、そのことに物足りなさを感じては、その焦燥感から、あっいけないこれこれに向き合わなきゃ【いけない】に戻るんだ。
最近そういう自由なワクワクに触れられていない理由はきっとこれなんだ。
もっと気軽でいい。もっと自然でいい。
一番いい形は何?ではなくて、
どうであったら私はワクワクするの?
なにがやりたいの?
こうするのが正解だよね、に乗っかろうとする私じゃなくて、私の声を発信する私でありたい。
きっと、あの先生に話すときに緊張したのは彼の正解を探ろうとしたからなんだね。
肩の力をぬいて。ワクワクしたいことだけを。
さて、何からはじめる?
そして、人生は続く。
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