忘れたくないから言葉にする
私は昔から食レポするのが苦手だ。今も苦手。
食レポに対して、ちょっと冷たい見方をしていた時もある。
テレビのリポーターが食べるなり「サクサクの食感に、バターの香りが〜」と言い出したら、「一生懸命食レポする前に『美味しい』って言ってよ」と思っていた。
心のこもった「美味しい」で十分伝わるでしょう、なんて。
でも、味を言語化するのは、人に伝えるためだけじゃない。
「美味しい」だけじゃ、その体験をあっという間に忘れてしまうから。
言葉にすることで自分の記憶に残りやすい。その記憶がくっきりとすればするほど、また体験を重ねられるし、人にも伝わる。
だから、なんとかこの体験を言葉にしてあらわそうとするんだ。
「美味しい」じゃ足りないよね、と今なら思える。
言語化することで何か間違ったり、作り物のように思えてしまったりもするかもしれない。
それでも、言葉にするのは楽しい。ぴったりな表現を選べたときはとても嬉しい。まるでそれが目の前にあるかのような文章をつくりたい。
好きな体験をした時の、あつあつの感情、ほくほくした気持ちを、そのまま真空パックにするみたいに。
それは食体験に限らず、なんでも。
フードエッセイスト、平野紗季子さんが大好きだ。
私は紗季子さんのエッセイを読んで表現の豊かさに惚れ、Podcastを聴いてそれは話すときも同じなのだと知り、すっかりファンになったひとり。
『味を言葉にすることについて考える』
配信されたPodcastのタイトルを見て、これはじっくり聴かねば!と思った。
どうしたらそんな語彙力が身につくのか、表現ができるのか。「味」という目に見えないものの言語化を、普段どうやっているのか知りたかった。
もしかして元々得意だったのかなあなんて思っていたけれど、聴くとそれは違って。小学生のときに書いた食日記を読んで「美味しいしか言ってない」と紹介してくれた。
ただ、味を言葉にすることを小学生の頃からやっていたのは事実。意識しているのは「要素分解」や「比喩」だそうで。とにかく目の前の料理に集中して、繰り返しやっていくうちに、身についたもの。
やっぱりあの表現たちは、集中力と熱意をもって何度もやってきたことの成果だった。急にぱっと言葉が溢れてくるようになったわけじゃない。
その食体験を忘れたくないという一心で、ずっと磨かれてきたんだ。
忘れたくないから、言葉にする。
私だって、その熱意をもって繰り返しやれば、できるようになるかもしれない。
大好きな体験を、ほくほくの気持ちまるごと残す。
それが誰かに伝わって、一緒にあたたまってくれたら嬉しい。
なんだか、私の目指したいことが、少し言語化された気がする。